• 「開かれた心と霊」(5)

     † 流されない心とは?
     流されるとは、文字通り「留まれない・変わってしまう」と言うことである。心が流されれば、神への信仰も変わってしまうのである。心の自然の形は「依存」の心である。特徴は、他人の評価がないと自信を持てない。自分の価値や行動が、他者の期待や、世の制度に縛られている心の状態である。これは、風の向きによって、方向を変える木の葉と同じである。「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。・・」コロサイ1・23) 堅く立つ心は、他人にどう思われようと、自分の信念に従って生きる「実存」の心である。この心は、自分自身が「どう生きるか」を選び、主体的に存在することである。強風にも、揺るがない根を張った樹と同じようになる。信仰とは、自由意志による個人(単独者)の選択であり、その結果の責任は自ら負う。これが実存的心の信仰であり、依存的心の信仰とは違う。62年前(23才)の時、キエルケゴールの著作を通して、実存的心の信仰を教えられ、以来変わることはない。この信仰で、神の愛に満たされ、聖霊の「しるしと不思議」も与えられた。現代に全く適合する信仰だ。

     † 心の中を剪定する。
     古い日本家屋があり、日本庭園が設けられている。松の木、梅の木、クヌギの木、柚、キンモクセイ等の他にも木が植わっている。これが教会のゲストハウスである。問題は庭の手入れで、これを私達夫婦が剪定をしている。素人が松を二本と、その他の剪定をして、この秋の選定を格好良く終えた。大切なことは、無駄な枝を切り落とす勇気である。合理的に、その枝はどれか?この知識が、徐々に判ってきた感がある。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」マタイ15・18-19)この心の悪枝を剪定し、捨てる事だ。思考(心)の戦いで「人を汚す」悪枝が大勢を占めているならば、あなたの神の国は、悪魔に奪い取られている。実体のない信仰生活をしているにすぎなくなる。心の中の悪しき枝の剪定は、自らの手で切り落とし、十字架にはり付けて、神に生きる者になるのである。