「開かれた心と霊」(7)

 † 信仰の心の在り所。
 信仰は、長い歴史において培かわれてきた、信仰は教理(教え)にあると言う事も言える。これは、おもに人間の思惟(シイ)→人間の知覚や感覚とは異なる、知的精神作用による人間の、認識を重視するものである。それが教理である。これに重きを置くだけでは、不十分である。本来のユダヤ的な信仰である、神の御心や、神の誠実、慈しみを、重視することが重要なのである。現代の世に理知的な教理は、なくてはならないが、それだけでは、骨と筋だけのシスマチックな信仰でしかない。信仰とは、本来人間の「心と霊」が、神の御心と、神の愛に結びついて、神の霊の生命で私達が生きることにあるからだ。この本命がわからないと、信仰が「神の心(御言葉)と霊」に実存しないで、「知的な認識」に偏執(ヘンシツ)してしまうのだ。だから、優先的なバランスを求めたい。私は多くの著名な神学書から頭脳的知識を学ぶが、目的は、神ご自身と、その御言葉の健全さのためだ。信仰のガードを鎧のように固め、何者にも脅かされないためである。信仰の中心は、神ご自身の生命に生きる「心」にある。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)心にこそ、霊は宿るからだ。

 † あせらない心。
 全ては、主なる神に任せて善いからだ。例えば、十代の若者に、何もしないで良いんだ。とは言わない。最善を尽くしているなら、それ以上は神の導きを待てば良い。と言う。復活の主は40 日後に天に帰られた。主の弟子達は「神を信じた本物」になるためには、神からの御霊を注がれなければ、本物には成れなかった。要するに、急いだり、セコセコしたり、焦って行動を起こすことを禁じられたのである。「本物になるため」には、焦らないで、主の御言葉に誠実に従がうことが最善なのだ。時間が流れ、期間が過ぎるかも知れない。だが、主の約束に期待して、誠実に待ち望む人を、主なる神は失望させない。焦らない心は、あきらめない心と繋がる。主なる神に「開かれた霊と心」がある限り必ず「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」2コリント9・8)この幸いを生きよう。

「開かれた心と霊」(7)