「開かれた心と霊」(6)
† 一心に見つめて離れない。
誰もが、自分を鏡に映すと思う。入念に鏡の自分を見続けるのではないか?「・・・完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1・25)ヤコブは、御言葉こそ「完全な自由の律法」だと言う。なぜか?神の御言葉を読むだけでなく、御言葉を実践することによって、神は私達を解放し、自由を与えて下さるからである。私達は、御言葉の鏡を覗き込む、目的は注意深く自分を吟味し、自分(心)を知るためである。御言葉を一心に見つめないで、一瞥(ベツ)して終えているならば、最も深い自分の必要は決して明らかにされない。それはスナップ写真とX線写真の違いをもたらす。一心に見つめないならば、見たことを忘れてしまう。もし、十分に深く、自分の心を見つめていたなら、そこで見たものは忘れられない。自らの心の真実を知った時、どう応答するか?イザヤは叫んだ「ああ、私は滅びる」イザヤ6:5)ペテロは叫んだ「主よ、私のような罪深い者から離れてください」ルカ5:8)最も個人的なディボーションでは、御言葉を一心に見つめて離れない、態度で臨もう。
† 言葉は人格を現す。
考えても見よ。主なる神の「心」があって、ご自分の独り子を世におくられたのである。私達と同じ「肉の像」として。・・・全聖書での神の語り(言葉)は、アダムとエバからの人間の「行いの歴史」に対して、また、この後の完成(再臨)を見すえて、神は語られている。御子イエスの十字架と復活の御業は、神の言葉の権威と栄光を証明している。御言葉は、神の「御心」が、揺るぎなく貫かれている。私達が、神を信じる者なら、私自身の、生まれつきの言葉を語るのでは失格である。神の心(主キリスト)にコントロール(制御)された心から、言葉を語るのである。「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」 ヨハネ7・18)私達の人格が、主キリストの支配下に治められると、語る言葉も福音にふさわしくなる。神の心を持てる者に成ろうではないか?「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」ビリビ2・5)文語訳