† 神の中に存在する。
 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)日常の生活では、心が閉ざされたような感覚の時がある。救われている現実の救いがあり、信仰は進行しているが、快活な心意気がない。なぜか?信仰ありとも、晴れ晴れしい感じが自分にないことに戸惑うのである。私だけなら良いが、ある人にも同じ事があるかも知れない。高齢者に起こる鬱的な症状なのかも知れない。男性にも更年期があり、コントロール出来ない心の症状がある。それと同じように、心は一筋縄ではない、複雑極まりないものである。まず不活性な心の状態を素直に認めて、私は宣言する。「私は、神の中に生き、動き、また存在している」と、すると私の状況の現実よりも、神の現実の中に生きる私を認められる「これで良いんだ」と認める。すると、落ちつくのである。私達は心の不安に怯えるし、感覚的な気分を、どうしょうもなく抱え込む。だが、そのありのままで、主の中に生きるのである。それが、尊い上掲の御言葉である。長引いた高温の夏の疲れが、涼しくなって心に現れてくる事もある。私の解決法は単純で悩むことがない。

 † 似たもの同士。
 聖い霊は、聖い心がふさわしい。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」1ペテロ1・15)特別なことではなく、当然なことである。心というものは、元々聖なる心を持ってはいない。行為において罪を悔い改め、主イエスに従がうので聖なる者になる。更に、前進させて行くべきは、思考の浄化である。神と悪魔の戦場は、あなたの思考の中にあり、今、激しく戦いが続いている。私の思いが、主の思いとなり、私の願う世界が、キリストの王国となるとき、私は聖なる者となって、聖霊の喜ばれる宮となる。私の思いが世の事柄であったり、自分の願望が「主イエスを愛する」以外であるときには、サタンの勢力が「思考を支配する」のである。信仰ありとも、戦いは激しく続いているのである。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」マタイ11・12)思考の中で、今、神の国は奪われないで、在るか?

「開かれた心と霊」(4)

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