「開かれた心と霊」(3)

† 潔い良心を持つ。
 私達は、神の御前に生きている。ダビデが「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう」使徒2・25-26)「主を見ていた」ということが、心と霊が開かれている状態である。それは心の楽しみとなり、喜びの言葉となり、身体も安らう力に満ちた。それが私達にも共通する。使徒パウロは「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」使徒24・16)まさに、主によって統制されることにある。私達は片寄りの多い、いびつな心の持ち主である。パウロは、潔い良心で神に接するように、誰にでも対当に変わらず、接することを行い、生きていたのである。主イエスのように生きるには、目の前に、喜びながら主なる神(主イエス)を「見て」いたのである。教えられて、できる業(ワザ)ではない。真実に神を畏れることによってしか、生まれてこない信仰である。福音の本質は「昔あったもの」伝道1・9)新約聖書の信仰が、現代に新しく、現わされることが、教会に重要とされるのである。

† 心の理解力。
 「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」ロマ6・11)この御言葉は、私達はキリストと同じく「私も死んだ」こと、「キリストと共に生きている」こと、「キリストの復活と同じになる」ことを「思いなさい」と言うことである。私達が主イエスの権威を確実にするために重要である。この「思いなさい」は「認めなさい」「考えなさい」というのが日本語訳である。原文ギリシャ語λογιζομαι[ロギゾマイ](計算しなさい・結論しなさい)と言う意味である。知性で計算し、心の結論とせよ。と言うことである。キリストの御業(神の御心)が「計算され」「心の結論」 として決定されたか?・・・・私の教え、導いた教会の中で、全く不十分なところである。肝心かなめの部分が、ここにある。一人一人が信仰をどの程度にして信じたいのか?個人の勝手と言うか?「笛吹けど踊らず」マタイ11・17)では、寂しい限りである。

「開かれた心と霊」(3)