† 自らの手で開く。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」黙3・20)ラオデキヤの教会は「生ぬるく」キリストの口から吐き出され、命を失う運命にあるが、主は、チャンスを与えられる。「私の声」を聞き、そして心の扉を自ら開け。そうすれば淀んだ空気は一掃され、主イエスご自身が、あなたの主人に再びなられる。そして、共に食事をして下さる。私達人間は、霊的生活では、中途半端な満足で満ちてしまう傾向がある。世的な生活では「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ヘブル13・5)しかし、霊的生活では、全てが主の恵みで満たされるまで、続けられて行くのである。本当に主を知る人は、更に餓え渇いて、主を求め続ける。しかし、信仰の年数が増すと共に、危険性が増す。ラオデキヤの人々のように、自分は十分だ、美徳を蓄えた、乏しくはない、となり、盲目になり、自らが裸であることが解らなくなる。主の声に応え、自らの心の扉を開こう。
† 閉ざさない心。
無条件に、誰にも、何事にも心を開けるだろうか?自分に問うときに、怪しい気分になる。開拓伝道で、ようやく会堂を建設した頃、様々なホームレスの方々が来られた。恐喝じみた形で、金を要求する人もいた。また、何日も宿泊され、朝夕の食事と風呂を用意した事や、ある人には散髪をし、要求に応え私の衣服を提供した人もいた。その、ある一瞬だったが、その男性の横顔が高貴な顔立ち変わって見えた瞬間があった。思い起こせることは、拒まないで、最低限の、もてなしはしたのではないか?という事である。私も貧しかったからこそ、貧しい人、困っている人に寄り添えたとも思える。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」 ヘブル13・2)イエスは馬小屋で生まれたが、それなりの、もてなしがなければ、布に包まれ、飼い葉桶に寝られることはない。知られずとも、心を閉ざさず、旅人をもてなして行こう。