† 福音の持てる幅(はば)
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」エペソ3・18-19)主イエス・キリストによる救いには幅がある。カルバリの丘で、主イエスは、二人の強盗と共に十字架に掛けられた。一人の強盗は主イエスを汚い言葉でののしった。しかし、もう一人の強盗は、自らを自戒し「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言った。すると主イエスは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ルカ23・42-43)と言われた。救いの恵み深さが、極限の死の前に実現した。一方では、主イエスの十字架を担い、愛の働きを続ける人々がいる。多くの積載物を運ぶ貨物船が、船体を海に沈み込ませて進むように。主を愛し、仕える人々だ。愛の広さ、長さ、高さ、深さを教えられ、主なる神の満ち満ちた様(さま)にまでも、救いの恵み深さを知る人々となる。
† 人間のあるべき姿。
神による人間の創造には、神の意図(目的)が伴なっている。人間の抱く理想や夢は大事だが、それ以上に、神の使命が科せられている。その第一は、神のみ心に従い、子を産み育てることである。「・・生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・」創1・28)私達は神のみ心を尊び従う時には、文字通り大きな祝福を受ける。今や、キリストの教会は、世的な少子化の風潮を蹈襲(とうしゅう)し出産を最小限にしてはいないか?大事なことは「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」申命5・10)第二は、イエスの命令「・・神のものは神に返しなさい」マタイ22・21) それは私達が富むためである。「・・主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」2コリ8・9)神の富に預かる人は、神のもの(最低十分の一)は神に返す人で、その人には、主が「天の窓を開き」祝福される。この神のみ心に従えないと、ため込んだきた富が、漏れて流れ出てしまうのである。