「福音を熟慮する」(6)

† 浅慮短見(せんりょたんけん)
 自分に当てはまることだが、考えが浅く身通しが短い。それが「浅慮短見」である。人は誰でも、ある時期までは同じような経験をするのではないだろうか?多くの人達との出会いは、都合の良いことばかりではない。「こういうことか」と、驚くような扱いを受けたり、ありもしないことを結論づけられたりもする。そのような体験を通して、自ずから「やって良いこと、いけないこと」を学ぶことになる。私達は様々な場面で、大切な教訓を学び、神の御言葉を信じる者としての「沈思黙考」が出来る者へと導かれている。カインの思考は、アベルに対する劣等感と怒りではなかったか?創4・5)エソウの思考はどうか「・・見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った」創25・32)弟ヤコブのしたたかさに、長子の特権を奪われてしまった。歳を経ることと共に、真理のかくあるべきを教えられてきた。神を真実に畏れていないと、神のみ心とは思えない異なる決定をしたり、選んだりするのである。ペテロやバルナバがパウロから批難を受けた場面がある。ガラテヤ2・11-13)同族意識や身びいきも、私達を歪めるものに違いない。神を畏れる(恐れる)ことによってのみ、真理に踏み留まり、福音を生きて、建て上げる事が出来るのである。

 神に知られる人。
 「・・人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」1コリント8・3)この「神に知られている」ことが、私の重要テーマになった。なぜならば、その確認が私の側にないからである。ただ「私が、神を愛するなら」と言うことである。例えば、私が偉業を成し得た牧師だと、言われたとしょう。だから、神に知られているのか?そうではない。神の経綸に従えば、神のみ心は、世におくられた、ご自身の独り子主イエスを「愛する人」何よりも「主イエスを愛する人」が、リアルに神に知られている人なのである。・・・・私が信仰において間違うことがないように、主を愛することが信仰の至上なのだと、魂に刻んで進みたい。主イエスの審きの座では「天におられる私の父のみこころを行う者」が御国に入れる。マタイ7・21)これが、神に知られている人だ。第一に「主イエスを愛する」こと。第二に、そうすれば信仰の結果はついてくる のである。

「福音を熟慮する」(6)