「福音を熟慮する」(1)

† 深謀遠慮(しんぽうえんりょ)。
 「深く考え、遠い将来までを身通した計画や配慮」のことを、深謀遠慮と言う。深謀とは、深く考えることを意味している。信仰の父、アブラハムは「主が言われたようにいで立った」創12・4)という。ここには、私達と違う状況(シュチエーション)がある。神の直接の「御声」が響きわたり、それ以上に驚くべきは、遠い将来までを「祝福」に満たすという約束がされた。アブラハムは、直感的に決断したようである。時間を設けず、熟慮する必要もなく、神の顕現に等しい「直接の神の約束」の御声に、自らを委ねたのである。その事がアブラハムの「深謀遠慮」を凌駕したのである。信仰とは、神の約束を信じて従う事である。疑うことなく、直ぐに「いで立った」のだから、信仰の父として称賛される、ゆえんである。私達も、全ての人々も、主イエスを通して、神の約束の言葉を与えられた。私達は「深謀遠慮」して、神の言葉(約束)に従うはずである。アブラハムの信仰は、全存在をかけて神に依存することであり、疑わないことである。誰か、神に全生涯を任せちれない人がいるか?今「深く考えて」神の支配と御力を確認し従う決断をせよ。最も幸いに導かれ、アブラハムのように、祝福された生涯になるからだ。

† 今までを省みる。
 古来より、神の聖徒が確信していることがある。「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」 詩34・9)人間には二つの道しかない。一つは、神を恐れることをしないで、自分に都合の良い生き方をすること。もう一つは、神を恐れて「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」詩23・1)と、主なる神と結びついた関係の中を生きる事である。怒濤の生涯を生きたパウロは「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」ピリピ4・11)と言う。私達は小心者(気が小さく臆病で、人目を気にし決断できない 者)である。そこに留まる限り向こう100年あっても、神に富む人とはならない。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。・・・」默3・15)今までを省み、主イエスに熱くなろう。すると「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ヘブル13・5)となる。

「福音を熟慮する」(1)