† 進歩するための技量。
自らの進歩は自分にしかわからない。明らかに努力による進歩であり、主の恵み深さによる進歩である。なにが受容されているのか?それは、自らの足りなさである。自らの不十分さを、正直に受容出来ることである。人間として、クリスチャンとして未熟さを認めて、受容出来ることが進歩し、成長するための絶体の条件である。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」ピリピ3・12)この使徒パウロの姿勢と、私達の姿勢が同じであることが「進歩するための受容」である。現実の今の自分は「得るべきものを、いまだ得ていない」自分なのである。自分の今の信仰とクリスチャン生活を満点にして、ピリオドを打つことなど、できないのである。一つ、忘れてはならないことがある。信仰生活50年の人にも、洗礼を受けたばかりの人にも、神の恵みの真実は、完全である。神には不完全な救いはないからだ。「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」エソ4・13)さらなる進歩に燃えて進もう。
† 楽しく美しくを受容する。
先日、ご高齢のクリスチャンとお会いした。年齢相応の忘却があり、何よりも、楽しかった思い出が、現在の世界となっている事である。私と神学校で共に学んだ二人が結婚した。30年ほどして奥様にアルツハイマー病(認知症)が発症した。63才から18年間の奥様の信仰と認知との戦い。夫として認知の妻を支え愛情を築き上げて行く過程が、綴られた「僕を忘れていくきみと」が発刊された。NHKで二回「クローズアップ現代」と「NHKスペシャル」で取り上げられた。奥様は「私が神様を忘れても、神様は私をおぼえていて下さるからだいじょうぶ」と、神との関係を喜ばれた。素晴らしい天への凱旋に感動した。この妻に対する夫としての愛のあり方を、学び教えられ、実践した記録が、私達に貴重な財産として残されている。主なる神にある私達の幸いは、神の愛の素晴らしい真実を受容し、生きてゆく技量にすることだ。