† 信仰は自らを受容する。
日本には古来より、自己を追求する思惟が存在する。無の境地とは超越的な到達点で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、織田信長に火攻めにされた快川紹喜(カイセンジョウキ)は、座禅のままに、心頭を滅却して火炎の中に涼しげに死んでいった。心の雑念を払い、無念無想の境地に達すれば、火でさえも熱く感じない。聖書に「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」マタイ6・34)真の無念無想は、厳しい修行において勝ちとれるのか?誠にその通りだが、更に優れた道がある。真の「無」は、死である。死の境地が最上の無念無想の境地ではないか? 死人であることは、痛みがなく、何を言われようと意味のないことと成る。全ての人間は自意識の真中に生きている。この自意識が、思い煩い、何かに捕らわれ、無念無想にはなれないままなのである。使徒パウロが達した境地とは何か?心頭滅却ではなく、キリストの中に生きる「生」である。自己の死は、主イエスの十字架に共に掛けられていることを、受容する事である。そのために現実に自己は「死」に、キリストが自己の中味(命)になる事である。キリストの信仰の命を宿して生きることだ。主イエスの命に生かさるので無に生きるのではない。この特権を誰もが持てるのである。感謝!
† 生きた福音を受容する。
福音は、人によって表現が異なる。四福音書は、その作者によって、書かれる方向がある。ユダヤ人のための使徒ペテロ。異邦人のための使徒パウロと、福音の語り口が異なる。しかしながら、私達は聖書全体を必要としている。自分の好みで片寄るにしても、福音の真理全体を、今の現実とし、生きて働かれる神として受け容れるのである。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」ヘブル13・8)また「・・・わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」ヨハネ5・17)これらの事からも、私達は、生ける神を宣言する。私達に伴い、私達の願いと祈りに答えて、神の御業を行われる事を宣言する。これを宣言しないならば、私達こそが、小さな神、小さなキリストに閉じ込めて、生きた福音を制限してしまうのだ。