† 仕切りの無い続き。
人間は自分の体験や理解した事柄から、整理する概念を持つ。歴史に区切りがある様に、たとえ繰り返すにしても、経過したという仕切りを置くことは問題とは思われない。神が受肉され、世に来られたことは、確かに大きな仕切りに見える。しかし、それは私達の歴史感覚である。「私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです」エペソ3・11)ただ、神の永遠のご計画の中では、天地創造も御子の受肉も復活も召天も、仕切りは見当たらない。一連の連続なのである。旧約と新約には、神学的には仕切りがあるけれども、神の永遠のご計画の中には仕切りはない。主イエスや使徒達が聖書と言う時は、それは旧約聖書の御言葉である。要するに人間に即して、聖書に仕切りを設けたり、神のお働きを、現在の私達が感じる所の、知性的で神学的な、仕切りを作り出すことは「神の永遠の計画」に対する大きな障壁を造ることなのである。クリスチャンであっても、自己の片寄った主義主張を持って「かくあるべし」とすることは、かえって神を小さくしまうことだ。神のご計画(真理)は、完全な球体に例えられる。球体は一面にして、全方位の「面」を持つ。神の御心であるご計画には、すべてが繋がり、連続しており、今の時は大切な永遠に連続する「一瞬」に数えられる。それが神の永遠のご計画である。
† 新しいものへ受容する。
最近スマホを新しくした。使い続けてきたスマホに不都合が現れてきた。それで新しいスマホに、データーの移し替えをした。新しいスマホは、機能が良くなり、細やかな設定が多くなっていた。助けを借りて、古いスマホの内容を、新しいスマホに、ほぼそっくりに移した。気がつくことは、すべてがキビキビとなったことである。スマホガ重要である理由は「みんなで聞く聖書」で御言葉を聞く事である。夜中に目が覚めると、イヤホーンで、聞き続ける。教会で最も聖書を聞いている一人となった。起動が一段と早く、御言葉に語りかけられる至福の夜となる。御言葉は「発酵する新しいぶどう酒」(マタイ9・17)である。御言葉を喜ぶと、革袋の私が新しくしなる。私自身が新しくなれば、力ある発酵した御言葉を満杯に受け容れられる。相乗に、ハレルヤ!