「生ける水を流す」(5)

† 御言葉の戸が開く。
 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)文語で読んだときには感動した。「・・・愚かなる者をさと(悟)からしむ」まさに、私のために最も必要な事で、今も神に期待し続けている。神に属するものは、人間には造り出せない。神格、神聖は人間にはない。この意味で人間は「無学」とか「わきまえのない」ではなく、全く異質な「愚かなる者」であるという認識を持つ。神の啓示によって、神と無関係に生きていた人が突然、神の声を聞き信仰に導かれる人も居られる。イスラムの人達の多くが、キリストの幻を見て、救い主と信じるそうである。まさに戸が開くようにして、聖書の言葉が光りとして、差し込み、新しい次元に導かれるのである。愚かを脱して神を知り、それが「知恵の始め」箴9・10)「知識の始め」箴1・7)となって、さらに新しい真理の中に生き、生命を流す者になり得る。一番、圧倒的に力強いものは、神からの直接的な「啓示」である。客観的な御言葉(ロゴス)が「聖言(ミコトバ)うち開くれば・・・」で(レイマ)になる。「うち開く」とは、何の隔てもなく開かれる事。それで「光りが差しこむ」と言うことである。この光りは、神ご自身であり、私達に宿られて、流れ出られる生命である。驚くべき主なる神の御心と御業である。

† 神ご自身のお働き。
 主なる神は「生ける神」である。私達のために、主イエスを遣わし私達人間の全ての必要を満たされた。すると、神はどうされるか?「あなたたちで神の国を建設しなさい」その全てを私は成し終えたのだから。それを励むのが教会の使命だ。というのは間違いない。しかし、大きな間違いがある。主は言われる「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです』ヨハネ5・17)主なる神が、ご自身の御業として「罪人を悔い改めさせ、救われる」のである。そのために神ご自身が、私達の中にお住みになる。キリスト信仰は、あくまでも私達の働きではなく神ご自身のお働きなのである。私達は、この地上では「神を宿す神殿」である。主なる神に、不自由で窮屈させないように、神に明け渡すのが私達の大切な使命なのだ。神が働かれることを大いに喜ぼう。

「生ける水を流す」(5)