「私でしかない」(5)
† 主イエスを慕う者。
人には、誰にも知られない秘められた思い出が在るに違いない。唯一のかけがえのない美しい思い出ともいえる。地上に生きる私達は、様々な体験を通して「自分を認識する」赤児の時、まず両親に愛を注ぎ込まれたのであり、家族が人格の成長に大きな役割を与えてくれた。子供時代の楽しい思い出と、友人関係による影響も大きく受けるようになる。段々と能力差や、貧富による格差が、人間の生き方や内容を形づくることを知るようになる。生きるということが、諸行無常であることを悟るに至る。今は勝者のようでも「盛者必衰の理(コトワリ)」は、本当であるからだ。このような人間だが、大切なことは、美しい出会いである。それだけは真実だ、という青春の「慕わしい」出来事である。世の中でどんなに惨めであっても「美しく慕う心」が、生きる力を持たせてくれたことである。私達は主イエスを救い主として崇めるが、その内容はどうであろうか?「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう」雅歌1・16)のようであるのか?多くの人が、主イエスを「美しく慕わしい恋人」にまで到っていないのは残念だ。私達が持つ、美しい「慕わしい」体験が、真理の雛型(ヒナガタ)となり、本体である、救い主イエスが「わが愛する美しく慕わしい方」になるのである。
† 私ではない私へ。
聖書を読む人は気付くことだが、主なる神は「一人一人」に関心を持っておられるということである。世界とか国民、教会とか群れという言葉は多く使われるが、最大の関心は、私に向けられる。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2・21)要するに、神の恵みとは「キリストの死」にある。私がキリストに結びつく秘訣は「キリストの死と同じようになっている」ロマ6・5)実際がある事、即ち私自身が「死ぬことを選択して」生きることなのである。それで「私ではない私」となって「神の恵みを無にはしません」と、使徒パウロと同じ真理の中に立ちゆく者になる。目が開かれて、福音の奥義を体験出来る。極めて単純で明快な真理なのだ。キリストが世に来られたのは、天の御座に通じる道を「十字架の死で」造り、私達を歩ませるためである。