「苦しみの意味」(3)

† 若いときの軛(クビキ)。  
 朝のテレビドラマのヒロインは、最も下っ端の使い走りをさせられる。その大部屋には10人くらいの先輩女優がいて、あらゆる嫌がらせ(いじめ)を楽しみながら、こき使うのである。そこで耐えられなければ未来はない。これを怒り、文句を言ったら完全にお払い箱となる。上品で優雅に育てられたヒロインには、想像すら出来ない世界である。「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」哀歌3・27)新共同。軛とは、二頭の牛を繋ぐ道具でもある。牛の自由を束縛し二頭を協調させ力を発揮させる。軛を負う訓練は牛が若い時である。主イエスは「・・・お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」ヘブル5・10)「多くの」苦しみが、従順を生み出し、完全な者にする。私達は、神のなさり方に不平や不満をいわない。謙虚に自己吟味をして神に立ち返る。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」箴言17・3)金や銀は高熱を通さなければ生まれない。何よりも、若いときに、訓練の苦しみを通して、主に試された人は幸いを得る。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩119・71)苦しみの真の意味がここにある。

† 受肉と生命の現れ。
 選ばれた「神の器」が、どの時代にも居られる。その基なる主イエスは「神の言葉(ロゴス)」と言われた。第一に、神が人間の肉体を纏われた受肉である。第二は、主イエスは、神の言葉(聖書)を解き明かすのみではなく、御言葉を生命であること、神の力であることを実際に現されたことである。現代の神の器は、有名であるか、ないかに関わりなく、主イエスと同じように「御言葉に受肉した人」である。そういう人が「イエスに倣う」神の人である。主イエスに現されたように聖霊が伴われ、御言葉を生命と力とされる。さて、受肉は優しいことか?とてつもない自己否定である。主イエスは神であることを棄てる事であった。「神の人の原型」がここにある。人間の最大の苦しみは、自分を自ら「殺す」完全自己否定である。しかし神の人への道がある。十字架にキリストと共に死ぬ(ガラテヤ2・20)道である。 驚くべき神の奥義である。ハレルヤ!

「苦しみの意味」(3)