「苦しみの意味」(2)

† 神との質的な差。
 当たり前のことが非常に重要である。神と人間では質が違うということである。この事を忘れると福音が理解出来なくなる。例えば:神は十全なお方であるから、苦しみを持たれない。完全の中に悲しみも苦しみもない。この本質を持たれる神が「罪を犯した人間」を見捨てずに愛されたのだ。そのために、神、自らが卑しい人間として世に来られ、罪人(私達)のために苦しまれた。その十字架があり、神の愛の全てが「完了した」ヨハ19・28)のである。復活は神の愛の完全性である。罪人である私達は、神の現れである完全な御業を、完全に信じて人生とするように求められている。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」ヨハ8・12)しかし、ここで人間の「質」が、神の質と異なる事が明白になる。人間は、自分に都合の良いことは信じて受け容れるが、自分に好ましくないことは退けて、神の言葉を反故(ホゴ)にする。即ち、自分に関係ないもののように振る舞うのである。この不誠実、不完全な「質」こそが人間である。完全、最善である神の力と御言葉を受け容れず、全き依存をしない結果、人間の解決不可能な苦しみが、生じるのである。
 
† 結果をもたらす苦しみ。
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」1ペテロ5・10) 聖書の求める「くるしみ」は、私達が神の栄光に連なっていることに起因している。それは、主イエスが人間として、神の栄光のため「苦しみと」を引き受けられたが、神の御力による復活を果たされ、世界を裁かれる栄光のメシヤとなられた。ゆえに、私達の栄光は、この世が授与するのではなく、キリストの苦しみを共にする者に、主なる神が授与される永遠の栄光である。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」1ペテロ2・21)さらに、地上の生活において、キリストの苦しみを受ける人は「罪との係わりを断つ」1ペテロ4・1)聖なる者となる。神の下僕とは、そういう人のことである。神に役立ちたい、聖霊に用いられたいと、願う人がいるなら、十字架を担う苦しみを知るべきである。

「苦しみの意味」(2)