「螺旋(らせん)状的信仰」(4)

† 環の中を巡る。
 信仰の螺線階段というイメージを描けるだろうか?「環」は円を描いている。人々が手を繋いで「環」をつくるように。螺線状的信仰の環は、連続して垂直に上昇している。それを真上から見れば、一つの「環」としか見えない。何百もの連続する環が、重なり合って一つに見えるということである。「・・・あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」黙2・4-5)この人は初め(一段目)に「神の愛」が圧倒的に与えられた。この愛は10段目の環の中でも、歴然として輝いていたが、20段目の螺線の環の中には、愛の力は半減し、螺線の環が40段目に達したときには、神の愛から、離脱し、宗教的な生活へと後退してしまった。私達の信仰年数を螺線の段数と見なしても、環が昇るごとに、神の愛は強くなり、神への信頼と献身、真理の知識の増大と確信。復活の希望と喜び、神の憐れみと恵みへの感謝など、環が上昇するごとに、豊かに増し加えられる。ゆえに「・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)神は、与えた良いものを成長させ、キリストの身丈までに完成されるからである。

† 習慣を継続させる。
 主の御心にかなう歩み、これに勝るものはない。歩むということは前進することである。「従う」という習慣を意味することになる。タイマースイッチは機器として、定刻に電源を「ON」「OFF」にする。一年間のみならずである。私達は「キリストに在って」生きるためには、習慣化されないものは、自分のものとはならない。毎日繰り返す、毎週繰り返す、毎月繰り返す。年が巡ってきても同じように、主イエスにあって歩む事を目指す。この歩みを螺線的に繰り返し実行する事で習慣が身につく。これが実際的なキリストに従う信仰である。螺線状とは連続していることである。主を信頼するということは、長きにわたり実践して、身につく習慣である。主にあって歩む事は喜ばしいことだが、それならば「我らは神の中に生き、動き、また存在する」使17・28共同訳)のである。信仰が曖昧だと、すべての善いことが失われてしまう。習慣となった信仰は失われない。繰り返し「主と共に歩む」習慣を励もう。必ず確信へと到達し、上昇する。

「螺旋(らせん)状的信仰」(4)