「健全な良心の信仰」(4)

† 真理の論理に従う。
 従う、ということは「論理的なことを受け容れる」と言うことを意味する。多くの時間を掛けて人間は勉強する。知的で能力を持つためである。しかし、「答」が用意されている勉強である。実際の人生を生きてみて、わかることは、答は用意されていない。と言うことである。現実の社会には答がない。学んだ道理が機能しない世界である。生きながら答を見いだして行くのが人生となる。そういう意味で聖書は生きる指針と答えを与えてくれる。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」2コリント5・15)これが、まっとうな答である。神の出来事は、私達の生き方に論理的な方向を与えてくれる。それが人間として、世界に向かって生きる、健全さと良心を持つことになる。若い時から、あるいは今から、真理の理論に従って生きれば、何一つ間違うことはない。私のために死んでよみがえられた「キリストのために生きる」その良心は、揺るぎのない健全さを意味するのである。

† 誰の賞賛を求めるか?
 自分の評判に気をもんでいる人は大勢いる。人間は人間に対して生きているので当然のことでもある。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」1コリント4・3)使徒パウロは偉くなって傲慢に語っているのではない。5節には「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」私の心の中の動きまで、知り尽くされる神の前に、賞賛を得られるように生きよ。そうすれば人の評価、判定などに左右されない人間になる。全幅の信頼を持って、神の前に生きる。その信仰は、自分自身にも誠実になり、神の賞賛を得る事を願う、健全な良心の信仰を持つに至るのである。クリスチャンとして今ある者が、そのようであるならば、神の栄光は、いかばかり輝きわたる事であろう。

「健全な良心の信仰」(4)