「健全な良心の信仰」(1)

† 良心の不健全。
 「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘブル9・14)主イエスの血は「私達の良心」を潔めるのである。私達の死んだ「罪の行い」から離れさせる。それだから生ける神に仕えられる者になる。クリスチャンの健全な良心は、主イエスの血潮に潔められる以外にない。神に近づくことが出来る、と言う偉大な特権も、潔めのない心では成り立たない。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10・22)真実に神に近づき、神を知りたいならば、主イエスの血潮の注ぎを、心に受けて「健全な良心」に換えられることである。神を信じている人の中に、良心の不健全なままに、生活を続けている人が多く見られるのである。主イエスの血潮は「全き信仰」を得させるためである。邪悪(不健全)な良心を潔めるためである。十字架の下(モト)に行き、進んで主イエスの血潮の注ぎを受ける人は誰か?その人はダイレクトに神の良心を授かる。

† 痛みのある心。
 主イエスは、痛みや悲しみを知っておられた。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」イザヤ53・3)主イエスは「さげすまれ」「のけ者にされ」そのひどさは、人々が顔を背けるほど。ひどいものだった。主イエスの良心は100%の感受性で、全てを受け容れられたのである。「ほふり場に引かれて行く子羊のように」主イエスは黙された。恐ろしいほどの、偉大な良心が現されているのである。有りもしない根拠で、さげすまれたり、のけ者扱いされる事に、耐えられる人はいない。ただ、神からの健全な良心を持つ人は聖霊に導かれており、神の御心に任せて前に歩むことが出来る。叫(ワメ)いたり、怒ったりしない。主イエスは人の不健全な心を悲しみ、自らの良心に痛みを覚えられたのである。完全な健全な良心とは、主イエスのお心である。その心を受け容れる人は幸いである。

「健全な良心の信仰」(1)