「立ちあがる」(3)

† 模範(ヒーロー)を目指す
 私達は気付かないままに、方向づけられている。子供の頃いつも言われた事を思い出す。「あの子は偉い子や」要するに見倣えというわけである。学業が進むと、先人の偉業や人柄について教えられる。常に倣うべき模範が見据えられている。スポーツにしても活躍した名選手を模範としてトレーニングに向かわせられる。特別な人を除いて、ほとんどの人が、誰かしらを模範にして大成を目指しているのではないか? この模範に倣うことは、確かな方向性に、自分を立ち上げることで、重要な習慣となる。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」1コリント11・1)キリスト信仰は、一つに方向づけられている。主イエス・キリストのようになれ、と言う事だ。誰しもキリストのようには成れないが、使徒パウロを模範として、信仰の生き方に立て、と言うわけである。私達は、現代に名だたるキリスト者の一人「ベンジャミン・フランクリン」をヒーローにして倣えば、クリスチャンとしても、実業家としても、政治家としても、著作家としても、一流となるための、倣うべき品性と知恵に満ちている。身近に、その誰かを見たいものだ。

† 満足に留まらず。
 聖書の明訓「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」1コリント8・2)人間も年を重ねると、何かをやり遂げたとか、これ以上求めるものはない。と、落ち着き、満足しやすい。しかし、クリスチャン人生は、それとは全く違う「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)本当の満足は、神の創設した確実な希望(神の栄冠を得る)に向かって走り続ける継続にある。人間は、満足すると成長は止まり、小さく固まってしまう。しかし、聖書の神は、桁違いの満足を私達に見させ、立たせる。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」エペソ1・18)偉大な望み、受け継ぐ栄光の富、神の偉大な力を知り、立ちあがり進むのだ。

「立ちあがる」(3)