「立ちあがる」(2)

† 立ち上がり方。
 電源を入れてパソコンを立ち上げる。これが、大方の基本だと思う。何十年もそうやって仕事をしてきたので、それ以外を思いつかない。新年の正月(七日)を過ぎたか、ある日の朝「これでは今年は大変だ」と思うような日があった。幸い、大変さを引きづることなく修正され感謝した。人生を、一括(クク)りに考える事も出来るが、実は毎日の積み重ねである。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリ4・16)この「日々新にされて」立ち上がることは、誰であれ喜ばしいことである。朝の目覚めが悪く、気分も晴れやかでなく、見た夢も混乱している。このまま、今日の立ち上がりが重くて、嫌な一日を予感させる。できれば、ここで「新にされる」電源のスイッチを入れれば良い。具体的には、私の内面(内なる人)を呼び覚ますのだ。私は、祈りのノートを広げる。そして、私が誰であるかを書き留めた20項目の「宣言」を声に出す。その一つ「私は神の子供とされた、大きな特権を与えられて、愛と喜びに満ち、聖霊に導かれます」こういう宣言が、具体的な私になってくる。自分を立ち上げるのみならず、主なる神も、身近におられる事を、感じられるようになるのである。

 † 近づくこと。
  ボクシングを見ていて感じるのは、相手との距離である。打たれないための距離と、攻撃するための距離を瞬間的に替えることである。人間関係にも見られることは、その人と距離を置き続けると、親しくならないし、その人柄もわからないままである。問題は自分の中に、恐れの心や偏見があるからだ。諺に「人には添うて見よ、馬には乗って見よ」がある。人の本質(人柄)を知るには、自ら近づくことである。私達は、この年「神に近づく」ことにある。神との距離を置くものは、全く神を知らない者、祝福を拒む者になる。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4・8)神を知らないで、本当に私達は立ち行くのだろうか?主なる神は、あなたの握っている物など一つも欲しくもない。ただ、この世の物に握られている「あなた」を失いたくないのである。神に近づくことで、信仰が生まれ、神の中に「立ち上がれる」のである。

「立ちあがる」(2)