「領域を意識する」(6)

† 今より高い領域へ。
 「真理は驚きである」この言葉に捕らえられ生きている。その真理に驚き(驚愕)することで、真実に私のもの(財産)となる。神に召された、その時から、私達は神の領域に生きる者にされている。その私達に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33・3)と約束された。私達には考えられない驚くべき、神の至高の領域に入れられるのである。それには「私を呼べ」と言われる。奥まった部屋に入り祈るのだ。ヤコブのように御使いと格闘する(創32・24)与えられるまで、執拗(シツヨウ)な熱心さが「神を呼び求める」ことである。神の偉大な恵みは「彼らの叫びに傾けられる」1ペテロ3・12)神のみが、私達を高次の恵みの領域に入れて下さる。今の低いレベルの経験に留まらず、高い領域を目指して、キリストの御名を呼び求めよ。熱心な祈りは、今の怠惰を打ち破り、天への窓を自ら開くことになる。モーセがビスガの頂き(申34・1)から、乳と蜜の流れる全地を見渡したように、私達にも信仰の高嶺に上るように招かれている。

 † 聖霊の領域。
 「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」 マタイ12・32)イエスは悪霊を追放し、しるしと不思議を通して神の国の到来を宣言された。パリサイ人は、イエス が「悪霊を追い出しているのは悪霊のかしらベルゼベルによることだ」24)と、言う事で、イエスの中に働かれる神の霊(聖霊)に逆らい、冒涜した。しかし罪人は無知のゆえに、神やイエスを冒涜するが赦される。「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい」ヨハネ14・11)業とは、聖霊のお働きである。その聖なる現れを冒涜し、逆らう者は赦されない。イエスは「数々の力ある業を行われた」マタイ11・20)が、悔い改めなかったコラジン、ベッサイダ、カペナウムの町々をソドム以上の災いが臨むと言われた。聖霊に逆らうとは、神の働きの本質に逆らうことで、この世でも来るべき世でも赦されない。聖霊の領域は、聖なる神の神聖な現れとお働きなのだ。

「領域を意識する」(6)