「喜びを極みとなる」(6)

† 死からよみがえる。
 人間が万物の霊長であろうと、最も優れた能力を持っていようと、人間は死を究極として終わるのである。素直にこれを喜ぶ人がいるだろうか?古代エジプト王は、巨大なヒラミッドを自らの墓とし、永遠の命のために、死してミイラになった。中国の始皇帝は、死に抗(アガラ)い、不老長寿の霊薬を捜しだすように、国の隅々にまで命じた。 彼が病になると、宮廷の医師たちのすすめる不老長寿の薬として、水銀を飲んでいたという。人間は、やむなき自然の死に定められたのであろうか?明確な答えは聖書にある。人間の始祖が神に不従順の罪を犯した結果、人間は「死」に定められたのである。聖書は人間の究極の敵を「死」とする。悪魔の策略は、人の死を美化することである。死を忘れさせて、キリギリスのように、我が世の春を歌わせることである。キリスト者はだまされてはならない。神が独り子を十字架にまで従わせられたのは「人間の死」を征服するためである。死への勝利として、主イエスは死の墓から甦られたのである。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます」1コリ15・25-26)宣教の重要性は、敵である死から人々を救い出す事である。

† 聖なる感覚。
 尊敬する師が病床に伏され、その時が来た時の事を日記に残された。「私の時が来た、厳粛な時だ」71才の若さで主の御許に行かれた。地上での私達の喜ばしい生活や感覚は、天国での前味として捉えたい。見る美しさ、聞く妙なる調べ、愛の強い結び合い、喜びの甘味の味わい、など。この幸いな感覚は、永遠の御国で新しい身体で生きる私達の内に引き継がれる。信仰を与えられたならば、造り主の創造の御業に感動し、あらゆるすばらしさに心を向けて、神を崇めたい。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」 ロマ1・20) 地上の事柄に埋没していると、その感覚は死んだようである。しかし、神を崇めて全ての御業に感謝し、心を向けるときには、永遠に繋がる聖なる感覚を甦らせるのである。

「喜びの極みとなる」(6)