† 世界の不遇を思う。

世界のトップニュースがNHKのBSで流れる。総じて言える事は、生きている人間の悲惨さである。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人」ルタ13・4)の記事があるが、その拡大版が現代である。火山噴火、地震と津波、洪水と干ばつと火災。この世界的現象で、不遇に見舞われる人々は数え切れない。平和な日常の集いに向けられる無差別の銃撃。人の自由を脅威として同族民を弾圧する様々な国々。そこには、億単位の人々が、不遇を強いられている。対岸の火事のように眺めているなら私達も問題である。イエスは言われた「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」ルカ13・5)神なる主の観点は「悔い改めていること」で、不遇を一蹴する「永遠の生命」を持つ事である。神なる主は、この不遇の世界を見つめて言われる「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」1ヨハ5・9)悪しき者(サタン)が関与する世界は、悪しきことも通常となる。不遇の中で優遇される人生は「・・・・人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4・7)

 

† 愛せる者が勝つ。

「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」1ヨハ5・5)信仰があっても世に勝てないと思うなら、主イエスに救われた自己に関心を持て。全世界を手に入れるよりも優る、朽ちない命を、神なる主は、あなたに与えられている。(マタイ16・26)それほどに神に愛されているのに、神への愛が乏しいと、神の賜物である信仰が泣いている。また、神の子供とされたことを、自分自身で認めて喜べないならば、主イエスは嘆かれる「私が彼に特権を与えたのに、喜こんで生きていない」と。人が自分自身を神の愛の中で受け入れることも、自分を愛する事もしていない。これでは、神の子供として、世に向かって勝利宣言はしづらい。サタンの要塞(ヨウサイ)は、個々の人の内にある。主イエスは真理の自由をあなたに与えたのだから、人(あなた)が神の愛で自己を赦し、自分が自己の全てを受け入れるのだ。それでサタンの要塞は砕かれる。解放と真の自由が生まれる。自分が自己を愛し受け入れると、世に勝つことと優遇された世界を持てる事になる。

「不遇と優遇」(2)