† 終末への変換。

この5月の山野は、新葉が日に日に盛り上がるようにして私達の目に迫ってくる。公園に一週間ごとに訪れるが、この季節は生命の旺盛な変化に驚くばかりである。木々はこれを何百年も繰り返し大樹となる。生命の輪廻の姿であり神の御心とされるところだ。子供の頃の思い出にあるのは、すぐ裏山に楢(ナラ)や樫(カシ)の生い茂る原生林があり、巨木が立ち並んでいた。かくれんぼにも良く、国定忠次気取りで、チャンパラをしたものである。しかし、人間は良き管理者ではない。森林を伐採し、花粉を撒き散らす針葉樹に変えてしまった。大地はどうか世界的な大規模農業と化学肥料によって深堀りされた大地は痩せ細り、実を結ぶ力を失い続けている。旺盛な力を持つ大地も不毛に変えられつつある。美しい空気も経済のための工業化優先でCO2(二酸化炭素)は、地球規模の気候変動を生みだしてしまった。ウイルスの脅威も原生林を開発することによって起り、人間の欲望から引き起こされるものである。管理の出来ない人間は、この先も同じ事を繰り返すのだ。終末への変換は、ずっと以前から進んでいる。

 

† 喜びへの変換。

真理は驚きである。発見が驚きであるように、真理は驚きを伴う。驚きを伴わないものは、本当の財産にはならない。知識にとどまるものである。聖書を持つ人々、聖書の解き明かしを聞く人々は幸いである。なぜならば、真理に出会い驚き、驚愕するからである。その真理こそ永続する喜びに変換されるのだ。真理とは神ご自身であり、秘義なるお方である。このお方について、絶えざる関心を持ち、自己の全てのセンサーを動員して、神ご自身に、そのお言葉(聖書)に正面から向かうのである。日々に新しい発見をするはずである。そして驚きを得るためには自己自身が静まっていなければならない。潔く謙虚であるということである。それとは反対に、自己意識が旺盛で、自分の才能や能力に重心があると、真理は単なる知識であり、道具である。真摯な喜びには変換されないと思う。真理は喜びに変わり、真理は真の自由に変わる。愛される神の子供として、アバ、父よ。と、神のふところに飛び込める人となれ。その父のふところには、慈しみ深い驚きと感動のみがあるから。

「変換される歩み」(7)