† 昇華か卑賤か?

人間は、常に今より上を目指して生きる事、頑張ることを当然としている。世の中は進歩しているのだから、見合った成長と進歩を求められているからである。昇華(ショウカ)という言葉は余り使われないが、霊的分野、心理学では重要な意味を持っている。物事が一段上の状態に高められることで「霊的に引き上げられる」に相当する。
情熱や執念、熱心さが飛躍的に信仰、学問、芸術を昇華させる、と言う事である。私達クリスチャンは、神との関係が深まる、即ち神の愛に満ちて生きる事によって、世界が変わってくる。主イエスの見ておられた世界に近づけるのである。社会の中で、人が上を目指して頑張り、生きいくのとは違った見方になる。聖書やイエスについて学んで解ったことと共に、神の愛の偉大さに昇華されると、主イエスを「私の主。私の神。」ヨハネ20・28)と、新にされるのである。
卑賤(ヒセン)とは、身分や地位が低いことで、私達の主イエスは卑賤の下僕と言われる。私達は人間として霊的に成長するならば、主なる神の愛に昇華され霊的視野が開かれることで、その人は卑賤のイエスに等しくなるのである。神の人は、自分の立派さなどどこにもないと言うだろう。神の御心に生きる人の卑賤の特長なのである。

 

† 見せない私。

「私は私である」当然のことながら「我が輩は猫」ではない。しかし、私は見せている自分と、見せていない自分がいるのではないか?見られている自分が、見せていない自分であるならば本望といわなければならない。どの様な場面でも表裏(ヒヨウリ)一体である事が理想である。自己評価の高い、低いとかに関係なく「正直な人」として、ありのままである事に優位性を感じるのである。「見せる」ということは、別の何かの自分を、見せたくないのである。人間は常套的に見せていない自分を変換して「良く」見せているのである。これは霊的には成人になれない姿である。確かにクリスチャンの道徳的・倫理的品性は聖書に準じ、主なる神の聖さに準じている。それを保持しているように見せることはパリサイ的な律法主義である。真実に神の恵みに浴したい人は、ありのままの自分を現さなければ、主は通り過ぎて行かれる。問題のある自分を立派に変換し「ふり」をして生きる事は、とてつもない無駄な遠回りをしてしまう事だ。自分の全てを主に見せる事が真の変換である。

「変換される歩み」(6)