† 変換する力。

人間を変えるというレベルで感嘆するのものが聖書にはある。語るに語り尽くせないわけだが、これだと思う事は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)信仰という領域は、過去も現在も未来も、実際の「永遠」にあるということだ。私は過去の私ではなく、現在の私でもなく、将来の私ではなく、全てを合わせ持つ私であることを聖書は言っている。こんなことは初めて書くことだが、私が変換されている真実の世界なのである。信仰により、イエス・キリストにおいて、ともに私は天のところ座っている。私達の生活の基準はどこにあるか?と問われるならば、いかに答えるか?「キリストによって国籍である天国であり、天にある栄光のもろもろの衝動です」と言ったらどうだろう。そう考えると、私達は天の栄光と御力を、信仰によって現実の今に呼び求め、エリヤのように天と繋がる事は不思議ではなくなる。信仰においては葬られており。信仰においては主イエスと共に天の座に着いている。その霊的現実に生きられる事が最大の変換なのである。天の歓喜を地にもたらすことにもなる。

† デジタルパソコン牧師。

今から33年前(1988年)ある牧師さんが、私に自分の事を「私はデジタルパソコン牧師で、神の言葉のみです」と紹介したのであった。この先生から多くのパソコン応用について学んだ。今時は、ほとんどの牧師がデジタルパソコン牧師である。恐ろしい程の進化を遂げているのがデジタルの世界で、パソコンの性能は著しい。40年以上もパソコンに係わっているとよく解る。このように道具が善くなったら、よいものが創出されるはずである。アナログよりはデジタルというわけだ。しかし、人間の頭は機械化されてはまずい事になる。人間は関係によって生きるアナログ(物理量)的である。人間関係の現実は、心を伴った愛であり、誠実さである。世の中がAI(人工知能)やデジタル化が躍進しても、人間そのものは変換されない神の作品(エペ2・10)である。人間はデジタル化に大きく影響され、人間性を疎外される時代になるだろう。しかし、人間は「愛」を必要とするアナログである。教会の使命は、人の生きるのは「いのちのパン」神の愛であることを、世に高らかに示すことである。

「変換される歩み」(5)