「うしろに立つ」(6)

† 過去の人が見ている。

 「永眠者記念礼拝」を迎えた。この世の生活を終えられた、教会関係者の記念会である。当然ながら、追善供養ではない。死後の人の状況を改善するために、現世にある人間が追善をしたところで変わるわけがない。それが聖書の原則なのである。カソリック教会も煉獄にある人々を昇華させるために追善供養に似たことを行っていたが、近年に聖書的に改善した。私達にとって世を去った方々は、無のごとくになったのではなく生きておられる。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのであるルカ9・29-31)モーセはキリスト誕生1400年前、エリヤは700年前の人である。生前の姿のごとくに現れたのである。「神は生きている者の神である」マタイ22・32)と、ハッキリと語られているのである。現代人の感覚は、この世に限りなく汚染された感覚である。要するに、死後の世界に盲目なのでなる。主イエスの語られる言葉、聖書の言葉は全て「永遠に生きる者の世界」から私達に語られているのである。汝らよ真っ当であれと、過去の人は見ているのだ。

† 後ろにある体験を探る。

 「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」 エペソ6・13)「悪しき日」とも訳されるが、よく言う「踏んだり蹴ったり」の日がある。それはまさに昨日体験した。半日分の作業が吹っ飛んだり、突然デスクトップが止まったり、ルーター(Fi-hi)がおかしくなったりした。泣き面に蜂という感じであった。しかし、こういうことは前にも経験した事である。自らの知識と体験を踏まえて過去を探ることになる。人生も様々やってきたならば、何事にも対応出来る術や知恵がある。特に機械的なこと、電子機器についてもトラブルに対して諦めないのは、過去に様々のことを試して、成功例を知っているからである。どうにもならず諦めかけた機器(ルーター)の買い換え直前に、もう一度接続調整を行った。なんと成功したのである。これを試さなくて、諦めていたら、高い機器を買ってしまったのである。嬉しい快感だ。

「うしろに立つ」(6)