† 国籍は天にある。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)おそらく最も健全な信仰姿勢が語られている。現代の多くのクリスチャンは、生きてゆく必要に視線が注がれているに違いないのだ。クリスチャンである事は、天の国籍に在ってこそ、地上の生活が成り立つという順序がある。凄くきれい事の様に聞こえてしまうのはなぜか?
考え得ることは、それほどに神の真意からは、ほど遠い観点を見つめて、今を生きている。と言うことになる。天国は唯一の国籍なのである。世の国籍は短い一時のものでしかない。自分に最も関わり深い天の国籍なのに、なんと無感覚なことか。この現実の乖離を反省し、主に向かい近づかないと、知ってはいるが実態のない私で終わってしまうに違いないのである。何事も到達した者が事実の証人となりうる。「主は答えて言われた『「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません』マタイ13・1)「天の御国の奥義」なのだから、主の御力と憐れみによってのみ、知る者になれるのである。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」マタイ7・8)自分の怠慢を悔いて、祈り求めて行きたい。
† 逆算の具体性。
長距離を走るアスリートは、走力の配分が重要になる。ゴールの地点から距離を逆算して、走行時間を計る。出発と同時に全力で走り出すことはまずしない。人生はマラソンと似ている。ゴールに到達することが最大の目的である。坂道も待ち構える。限界を耐え抜く信仰と意志の強さが必要である。様々な痛みやトラブルも起こってくる。だからこそ、乗り越えられる計算を必要とするのである。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」ルカ14・30)自分の到達点が、救い主であり、最高の花婿に出会う事であるならば、そのための「今」がある。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)だが私達は、最高のゴールを想定しないまま、走りつづけていないか?現代の世の力に心が奪われているなら「世の力よ私から離れて行け」と命じよう。


