† 神の心を知る。
 私達はイエス・キリストを愛している。愛を生じさせるのは、思いと思いである。それが、心と心を結びつけるのである。私の心が御父に結びつくのは「御父の心の思い」を知ったからである。独り子を惜しまないで、なぜに、こんな私のために、死にまで至らしてくださるのか?思えば思うほど、神の慈しみと憐れみに、心は打ち砕かれる。救い主だから、復活の主だから、というので、私は主イエスと結びついているのか?その一面は真実だが、それだけではない。私のために、死の十字架にまで神に従い通された、主の深い思いに触れて、私の思いは打ち砕かれ、主イエスと結びつくのである。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」マラキ4・5-6)教会に集う人々の信仰をほめたたえる。そして、慈愛に満ちた「父の心」を深く知る、神のしもべに成長する事を期待する。そして、神の子である者達が心深く、主である神を、潔く愛するのである。この者達がいれば、神の呪いが、この所に下されることはないからである。

† 真実を尽くしてくれ。 
 エジプトに下ったヤコブに、死ぬべき日が近づいた。ヤコブはヨセフを呼んだ。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ」 創47・29)この所で、神の願いが語られている様な声に聞こえる。神は「私に愛と真実を尽くしてくれ」と、懇願しておられるように思える。事実は親であるヤコブが、子であるヨセフに、親の切なる心の願いに「愛と心を尽くして」くれと懇願しているのである。 ヨセフは「必ず、おっしゃったとおりにいたします」 と答えた。(共同訳)ここで私は、神のへりくだりを見ているように感じる。父なる神が、私達に「私に愛と真実を尽くしてくれ」と願われるのである。むしろ「私(神)に愛と真実を尽くせ」と厳しい命令をされる所だ。しかし真の「愛と真実を尽くす」ことは、命令されてではなく、私の自発的な行為として、主の愛に自然に応答すべきものなのだ。

「開かれた心と霊」(2)

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