「福音を熟慮する」(4)
† 未来ではなく今。
今日よりも、明日に望みを抱いて生きる。それでしか、今を忍べない。そのような人生の修業時代があったことを覚える。そのゆえに、主イエスに出会えたのだから、悪いことではなかった。文豪ゲーテも、自分の人生の中に、修業時代の日々を区分している。クリスチャンになって、主イエスを全般に信じられるようになるには、時間を要する。使徒達も年月を経て、高邁(コウマイ。抜きん出て優れている)な、真理の享受者になり、伝授者になった。彼らの教える言葉の中には「今」を生きる重要性が宣べられている。今、この時に、神の慈しみと恵みの福音が、惜しみたく注いでいるという事である。自分の若い時には、現状の今を不満とし、感謝できなかった。しかし、無給の独立開拓伝道は、まさにゼロの環境だった。なのに環境に不満はなく、重労働の中で生きて、福音を広める活動が重荷ではなかった。毎日の「今」が「神の中に生き、動き、また存在している」使徒17・28)ことであり、主なる神との一体感があったのである。「今」とは現在の事である。現在とは、神の愛が注いでいる「今」なのだ。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」ロマ5・5)
† 失格者にならない。
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」1コリ9・27)これを使徒パウロが語っている。目標を目ざす競技者の、規則に従った激しいトレーニングになぞらえて言っている。使徒として福音を宣べ伝え教えているが、それが合格の保証と見ていない。主イエスの御前の審きに合格することが、最終の決勝点である事を踏まえて語っている。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」ヘブル10・31)ここでは、迫害で家や財産を奪われても「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました」10・34)「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」36)私達全員が、神のみこころを行って、神の御国へ、晴れやかに入城できるように、主イエスの中に生きていこう。