「福音を熟慮する」(3)

† 家庭と福音。
 地域に教会があることは幸いである。そこに教会が在れば、何人かの方々が教会に赴くことができるだろう。そういう意味では、キリスト教会は、どんな小さな町にもあって欲しいと思う。しかし、そのような少ない信徒の教会では、実質的な維持が困難で、日本の高齢化と相まって、衰退を余儀なくされる。一方、教会という既成概念に囚われている可能性もある。主イエスは、聖霊によって教会を生みだした。その教会は、場所ではなく「交わり」であり「集まり」であった。神殿やシナゴ-グ(集会所)からの開放でもあったのである。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」使徒2・46-47)信徒の家(誰かの家)で、使徒の教えを守り、神を賛美し、喜びと真心の礼拝がされていた。3000人が救われ、直ぐに2000人が救われ(使徒4・4)5000人教会となる。彼らは、信徒の家に分散し、「礼拝と交わり」をした。誰か、神を畏れ、真理と聖霊に精通し、同じ原型を適用するなら、日本のどのような地域にも「家の教会は」可能である。現代は教会には信仰があるが、家庭には信仰がない。祈りも、賛美も、真心の友との食事もない? 福音は家庭に結実し、その延長に教会が形を成すのである。

† 福音の姿を纏う。
 「信仰を与えられた」この考えが大事だと思う。与えられなければ真の信仰ではない。神に信仰を与えられたゆえの救いである。この土台の上に、福音の全てが成り立ち、建てられているのである。熟慮すればするほどに「与えられている」そのものを確認することでしかない。人間の優秀性で福音を加工することを赦されていない。とどのつまり、私達人間は、真理であるキリストご自身を纏(マト)うようにされているのである。それは何をもたらすか?それは、キリストが人々を救われたように、私達も、人を救いに導く事である。また「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれ・・・・」マタイ16・19) と同じように出来る事である。与えられている権威の執行者、神の子として。

「福音を熟慮する」(3)