「福音を熟慮する」(2)
† 熟慮断行(じゅくりょだんこう)。
十分に考えた上で、思い切って実行すること。これが「熟慮断行」である。やはり、教会の鍵を握るのは、個人の真摯な「熟慮断行」が有るか、無いかにかかっている。ことわざに「糠(ぬか)に釘」がある。糠に大きな釘を打ち込んでも、手応えも効き目もない。神の言葉(真理)も同じで私達の魂(人格)を、神聖なキリストにまでに換えようとされるが、私達には、それにふさわしい気概がない?そのようになりたいという信念がない?教会全体がそのようであれば、福音の真理が根付くかについて大方の予想ができるのである。足りないものは何もない」黙3・17)と、不足を感じないのが、ラオデキヤ的教会現象である。教会の奉仕に取り組むのも重要である。もっと重要なのは「神と格闘」する事である。ヤコブは神と格闘して「神の皇太子」という新しい名を与えられた。創32・28)主なる神が主イエスを通して、私達をどれほどに引き上げ、どれほどに栄誉と祝福を与えて下さっているか、それを知らず、体験もせずに過ごす、教会生活は貧しすぎる。今を感謝し、今を喜んで生きているなら、さらに、驚くべき恵み「天上での霊的なもろもろの祝福」エペソ1・3)を、求めてゆく聖なる決断をしようではないか。
† 救いの中味が拡大する。
19歳の時に洗礼を受けた。その当時を省みると、非常に理づめな、クールな判断で「信じて」洗礼を受けた。当時の罪意識としては「誰だって嘘はついてきたし、何かを盗んだことはあるし、責任を果たさない卑怯な事もした」それらは自分に妥当する。それで私も罪人である。主イエスの十字架は、そのような私の罪を赦された。それで洗礼を受けた。この一連は、納得の出来ないことの始まりになった。自分の理性的な判断でイエスを信じたが「霊から生れる者は霊である」ヨハネ3・6)とは?未体験のことであり、その内容や意味もわからない。要するに、十字架の出来事の深遠さが、全くわからない信仰生活を続けていたのである。信仰の第一に、聖くあることを励んだ。その結果は「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」ロマ7・24)だった。絶望に崩れ 落ちた。その時、聖霊が臨まれ「霊から生まれる」体験をしたのである。信仰には、高さも、深さも、幅もあるのである。