「恵みの至る所」(4)
† 恵みの体感力。
「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです」1コリ2・12)私達にとって、第一の事は「神の御霊」を受けた。と言う現実に全てがある。私達が対峙(タイジ)するのは「この世の霊」なのだ。生まれつきの、知性や理解力がいかに優れていても、神の恵みは体感できない。洗礼を受けたことは幸いである。その内実は、古い人(自分)に死んで「この世の霊」と決別すること、その結果、御霊に生かされる。神の恵みの体感力(実際)は、御霊(聖霊)により、主なる神が主キリストを通して、私達に下さる恵みの実際を、知る(体感する)のである。教条的信者は、教理的理解で救いや、恵みを信じる。別の意味では「宗教の霊」に生かされる。特長は「御霊の働き(現実)」が、理解出来ない。教理的に神は生きておられると信じていても、現実には宗教的(教条的)の域をでられない。重要な事は明白である。御霊に導かれるため「古い自分の死」ロマ6・6)を、この世に、悪魔に、自己に公言(宣言)する事である。その明白な信仰告白が御霊により「・・いや増しに恵みを賜う」ヤコブ4・6)口語訳。真理の道となる。
† 恵みによる計算力。
信仰を与えられた個人にとって、何が可能となるか?もちろん、信仰生活を続けている結果として、考えつかなければならないことである。あなたへの、神の恵みの深さ、高さが、達成の計算力となる。神は「恵みを信じる信者」を前提として、それに答えられるのである。私に対する神の恵みが、私自身に余りにも深く、余りにも高貴であるなら、圧倒的に神の恵みに期待するはずである。私に出来る事など、神の恵みの偉大さに比べて、微塵(ミジン)もない。私の存在力は、ほんの1%にもすぎず、対して神は100%で臨まれる。この計算によれば、私は100%を達成出来るのだ。確かに「どんなことでも、神にはできる」マルコ10・27)私達は恵みを受けると、神への信頼は強くなる。期待力は忍耐力となる。食うや食わずの貧しさであっても、神の恵みを基礎とした事業は必ず実を結ぶ。「・・それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである」創39・23)恵みは、かくの如く至るのである。