「恵みの至る所」(3)

† 一人一人に100バーセント。
 ある人は限りない努力をして、必死に神を追い求める。所が、ある人は異なるスタイルを持つ。主を知るための切実さに、それほどではない信仰生活を持ち続けるのである。主イエス様に言われていたことは「・・・・先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」ルカ20・21)神は、どのような人にも「分け隔てなく」真理を教え、授けられる。恵みは「分け隔てなく」与えられることがわかる。こういうことになる。神ご自身と、奥深い恵みについて、限りなく餓え渇いて求め続ける人に、神は誠実に答えて恵みを与えられる。それほどの飢え渇きがない人にも、神の恵みは不変であり、与えられる。では、あなたはどうするか?聖書の証言を尋ねるならば「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」詩42・1)の、ような私になりたいと願うべきか?それとも、普段の私のありのままで、主と共に歩むか?である。神の恵みはいかなる人にも、分け隔てがない。ただ、神は誠実なお方であり、慕いあえぐ者には、ふさわしい恵みを備えられる。結局のところ、どちらの人にも、神の恵みは、備えられるのである。
  
† ただで飲め。
 神が人類に叫ばれたことは「・・・イエスは立って、大声で言われた。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」ヨハネ7・37-38)私達は主イエスから生ける水を飲む。そして、私達の「心の奥底」から生ける水が、流れ出る。恵みは受けるだけではなく、私達が与えられる恵みになる。私の味わう「生命の水」は、渇いている人を生かす恵みとなる。福音の言葉を与えるのみではなく、恵みとしての「神の力」をも、与えられる立場にも置かれるのだ。そのように私達は立ち上がるのである。「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」マタイ10・8)この時代の今に、生命の水の川は私達から、川のように流れるのだ。

「恵みの至る所」(3)