「恵みの至る所」(2)
† 今は恵みの時。
「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え:救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」2コリント6・2)主なる神が預言者イザヤに語られた言葉だが、パウロを通してコリントの教会に、そして、現代の私達に語られている。私達の「今」は、私の「過去、未来」を包含する「今」なのである。世界と歴史の中に「時が満ち」マルコ1・15)主なる神の御心の救いのご計画が、十字架と復活によって完成した。何という驚くべき歓喜゠見よ!→(「確かに」)今は「神の時(カイロス)」恵みの「時」なのである。「今は救いの日」なのだ。と、私達は「いつか、そのうちに」という曖昧さで切り抜けようとするが、神の恵みは「今」十全であり、神の救いは「今」100%整えられ、何の不足もない。神の慈しみと憐れみの「恵み」が、私の祈りと願いに答えられる。そればかりでなく、私達の困難を助けられる。それが、神の時である「今」居られて、主なる神は私達に「恵みの御手」を宣べられる。信じる者には「今」は恵みの時となり、救いの日となる。聖書の言う「今」とは、神の働かれる時(カイロス)なのである。私達は、まず偉大な主の恵みに、喜び踊ろう。その故に、「GoInTo」が出来る。
† 使信と情熱を生む。
信仰を持つと「救いと恵み」という世界に導かれる。自己目的の信仰から、神の愛を知り、恵みという世界を識るようになる。自己確立の土台は自分にあったが、救いの意味と神の恵みを理解するにつけ「神に生かされる」ことが本物であると気づくに至る。信仰と神の恵みは一体なので、誰でも同じく、神が土台になることを、聖書が証言している。自我が強情であるならば、聖霊に逆らう人生を生きることになる。人が脱皮するには、「真理(信仰)」を選択することである。「神の愛」を選ぶ意志である。罪人として、神の赦しを選択し、意志を持って従う決断をする。そうでなければ、成長を計る目安はない。選んだ真理があり、捨てた罪があるなら、自ずから使信は強くなり、その現れが情熱となる。「・・・私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。・・・」1テサロニケ2・13)誠実な人は、そのように至る。