「受容という技量」(4)

† 誠実という技量。
 今の時代を巧みに生きる人が、賢い人「世渡り上手」な人である。主も言われる「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」マタイ10・16)聡く、とは賢く、と言うことだ。だが、私達は神に対する「誠実」さを強く求められている。出エジプトをした成人は「不誠実」のゆえに、死に絶えるまで40年も荒野をさまよった。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい・・・。」ヨシュア24・14)私達は生活上のことでは、賢さを求めるが、それ以上に「神への誠実」を生きることである。旧約聖書(神とイスラエルの歴史)は、選ばれた民の不誠実の歴史である。ヨシュアの最後の言明は鋭い「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである」ヨシュア24・19)かたや、モアブ人ルツは、その「誠実」において神の祝福を受け、ダビデの、主イエスの先祖となった。「すると、ボアズは言った。「娘(ルツ)さん。主があなたを祝福されるように。あなたの示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。・・・」ルツ3・10)神は生きておられると信じる者は、「誠実が祝福を得る技量」であることを知るのである。誠実は神の御心に繋がるからである。

† 敵を愛せるか?  
 受容としての極端は、敵対者を受容すること。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」 マタイ5・44)私を迫害する人は「憎しみ」を内在してのことである。このような人々を受容して行く技量とは?また、自分の脳裏には、赦せない人がいる。これを、能動的に赦し愛する技量とは?・・・キリストが十字架で人々を赦された実際を、私達が現実に赦し、愛し、祈ることの完成を求められる。私達が、天の者であることを体験するためである。私達の自力で「これを成すべし」と、言われてはいない。信仰を用いて祈れと言うことだ。「主イエス様、とても私自身で出来ません。しかし、イエス様は出来ます。私もイエス様と共になら出来ると宣言します。イエス様が、私の中に完成して下さるので感謝します。アーメン」その如く成る。

「受容という技量」(4)