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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

面白くないところに(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/23 9:00
† 言わないでいる。
 自分自身の問題は何であるか?と単刀直入に訪ねて行くと,行き着くところがある。それは,誰にも言わないところである。時間をたどって行くならば,そのところにたどり着く、またそれは言わないでいる事柄でもある。聖書は「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8:17)と言っている。人に言わないでいることも,自分には明らかなことである。神にも明らかな事なのである。・・・・神との親密さは「明るみ」の中で行われるものである。私が自分に都合の悪いところや言いにくいことを秘密にしているならば,神との親密さは実現していないのである。神は知っているのだから良いじゃーないか。と都合よく割り切ろうとするが「光の中を歩む」ヨハネ1:7)からはずれてしまうのである。それなのに,自分の霊的レベルが教会の平均よりも上であるなどど是認してはならない。神の聖い光に照らされて心の闇は光に変わらなくてはならないのだ。その心の闇が砕かれて,教会の交わりと歩みは光の中へと健全に移されるのである。  

† あきらめの安住。
 思い通りになるほど痛快なことはないであろう。牧師の私にはそういう事はあまりない。良いように言い訳をするならば「私の思いではなく神のなされる事がなっている」と言うことができる。それは,主の御心がなることを何よりも求めているからだ。しかし買いたいもの,欲しいと思うようなものは,ポケットの経済の赦す限り思い通りにしている。しかし,どんなに「思い通りになれ,それが最善なんだ。」と叫ぶがごとく思っても,すぐにはそうならない現実に腰が折れそうである。要するにあきらめかけるのだ。・・・・朝ごとの祈りに赴いて365日変わらず目にする請願の一つ一つを祈るとき感じることがある。あきらめないで祈りの中で宣言し,新鮮にすることである。生き生きとした請願にすることだ。それが私の訓練になっている。私達の目にする世界や状況は目に見えて変わっる事がないので,そういう世界を見続けると安住してしまう。すなわち,祈ることを止め,宣言することを止め,チャレンジのない,聖い渇望のない世界に落ち着いて安住するのである。「熱くも冷たくもない」默3:16)所だ。そこは神が厭われる所である。そしてそれが最も身近な教会の問題ではないだろうか?
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面白くないところに(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/16 9:00
† 留まりたいところにあるもの。
 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」ヨハネ15:7)いかにも留まるべき所は主イエス様である。多くの実を結ぶばかりでなく,欲しいものを求めよとまで言われる。そして与えられるからだ。私達は心理的に繋がっている,脳裏の中ではそうしているつもりなのである。ところが,主イエス様に留まると言うことは,人間生活のあらゆる部分で求められている事なのである。具体的な生活をキリストに留まって行うことが信仰生活なのだ。そうしてみると,いかにも生活がキリストから離れてしまっているのではないか。問題はそのことに気づかないままで居ることだ。私達は礼拝や聖会や祈祷会という交わりの中ではキリストに留まれても,夫婦や家族,近隣の人々と中では旧態依然の自分の中に留まっていないだろうか? 古い自分に留まる方が自然になっていないだろうか?。キリストに留まることから遠ざかるならば,豊かな実を結ぶための手立てを失うことになる。今この所で「主よ。私はあなたに繋がる」と宣言しょう。


† 不信頼の原因。
 私達が最も惨めな敗北者となるのは,主イエス様に信頼しない時である。主なる神は必ず私達の信仰を「試み」て,ご自身への信頼を強められる。私達はそれぞれ「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」1コリ10:12)と言われているが,それは試練があるからだと聖書は述べる。主の祈りの中でも「試みに会わせず悪より救い出し給え」と祈る。なぜならば,試練はつらく,心痛み,耐えられない圧迫を伴い,とてつもなく面白くない所だからである。ともすると未信者のごとく神を呪い,不平と不満の世界に落ちてしまう事も起こり得るからである。そういう時は,祈りの友に助けを求めよ。御言葉の励ましを受けよ。呻吟して神の御名を呼び求めよ。そうするならば,私達はこの世から救われた者であり,思い煩う必要のない偉大な生ける神が助けを与えられる。私達はこの世に生きるだけの未信者ではない。信仰によって生きており,神の大能の御腕が私達を支えているのである。イザヤ40:10)試練という最も面白くないところから,かえって強く神を信頼する大きな財産を得るのである。
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面白くないところに(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/9 9:00
† 通りゃんせ。
 「とおりゃんせ,とおりゃんせ,ここは何処へ行く道じゃ・・・・」童謡の一節だが「行きはよいよい帰りは怖い」とある。ある説によると「行き」は生まれること。「帰り」は死ぬこと,と言われている。童謡は結構厳しい内容が多いと聞く。しかしである,我が主イエスも「とおりゃんせ」と言われる。ここを通らないでは一人前にはなれないよ。と言う意味である。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」マタ 10:38)愛する主が,私に「あなたはふさわしくない」と言われるほどのショックがあるだろうか?・・・・例えば,「罪の赦しを信じた時,十字架を通ったではないか。私はそれで十分と信じていた。」と,私達は確かに通ったのだ。しかし,十字架の真意は,負い続けることであり,神の栄光が現れる事にある。肉なる人間は「行きはよいよい十字架」を受け入れるが,十字架を負う「自我に死ぬ」ことを怖がる。否,肉的に面白くないのだ。十字架を負っている人は「キリストの戒めを守れる人である」ヨハネ14:15)キリストにふさわしいなら天の栄光は現される。私もあえて言う「十字架を負う」事は,最も面白い世界に生きる最大の決断である。

† 私の場所ではない。
 頼むべきものが何もない,誰もいない。どうにもならない。これは,最も面白くないことである。しかし,行くべき所があるのである。使徒パウロは,2コリ1:8-9「・・・・非常に厳しい耐えられないほどの圧迫に,生命さえ危うくなり死を覚悟した」「自分自身を頼まず,死人を甦らせて下さる神にのみ頼んだ・・・・」これを「神に追い込まれる」という。逆境が,最大の困難が私達にとって「神のみに追い込まれる」のである。こういう経験がない場合は,信仰はまだ,いろんな世的な衣装をつけており,いまだ本物とはなっていない。優秀であるとか,賜物があるとかが,何かと評価の対象になりやすい。しかし,そういった生まれつきのものが,神の国の評価であるかのように誤魔化す(ごまかす)のが,「世と肉とサタン」である。主なる神は,安易な方法で知られるお方ではなく「隠れています神」イザ45:15)と宣言されている。あなたの場所はどこですか?地上の安住,安逸でしょうか?・・・・主は,あなたの最善のために窮地を備え,耐えられない事態をもちいて「ご自身に追い込む」ことを願われ,ダビデのように神を知る者となるのです。詩144:2「主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。主はもろもろの民をおのれに従わせられます」
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面白くないところに(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/2 9:00
† 変えられない所。
 誰でも生きている途上にある。そして生きて来たという過去を持っている。まさに過去は変えられない集積である。考えてみると私達は未来の舵を取る特権を持っているように思えるが,かえって過去に左右されて舵を取っている事に気がつく。・・・・全くそんなことに頓着なく,気づいていない人も多いのであるが,人生を吟味するならば大方はその通りである。要するにここに「変えられない」人間の性(さが)がある。いくら環境を変え,新しい家屋に住んでも,またもや過去の環境と同じような生活状況を造ってしまうのである。ここに被造物としての人間を見るのである。罪の性(さが)に悶絶していたアウガスチヌスは,どうして自分は変わらないのか?新しくならないのか?と絶望の極みにあった時「取りて読め,取りて読め」という内に聞こえる神の声を聞いた。その御言葉は「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」ロマ13:13)であった。そのことを通して,アウガスチヌスが希なる聖人として生まれ変わったのである。・・・・自分の極みは何であるか?それは,変えられない自分ではないか,不快で面白くない自己の現実の所に留まれ,そこに神は現れて下さるのである。


†  どうか赦して下さい。
 おもしろくない代表的な事柄は最近よく目にする。「申し訳ありませんでした」というお詫びである。政府要人や,一流企業の役員が深々と頭を下げる姿が,殊に多いこの頃である。不正を働き,悪事を隠していた犯罪行為に対しては,神は社会というシステムの中で審きを明らかに示される。それとは別に,真理に対する,神に対する霊的な不正や悪事というものがある。警察も来なければ法律も適用されないが,自覚的な行為として「罪を告白する」「罪の赦しを求める」ものである。自我やプライドが,どうしても赦さない「最も面白くない様(ざま)」を選ばなければならないのである。ただ聖なる神が求められる事に押し出され,聖霊の促しに従う以外に出来るものではない。多くのクリスチャンが罪の「赦しを人に求める」ことと「人を赦すこと」に,霊的な間を置くことで,曖昧になり,霊的なシャープさを失っている。十字架の赦しを私達が現すなら,神の天的なエネルギーが働くことを忘れている。あなたは不本意にも罪を犯し,そのままにしていないか?聖霊の促しに反抗し罪の告白を取りやめていないか?赦しを求めるべきなのに「どうか私を赦して下さい」と言わないままにしていないだろうか?
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たといそうでなくても(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/26 9:00
† 御国の真実。
 「悲しみ尽きざる浮き世にありても日々主と歩めば御国の心地す」という聖歌の歌詞がある。信仰とは保証された希望に喜びを持ち力を感じるものである。希望の頂点に御国(天国)があるのだが,少しも悲観的でなく,あきらめでもない。クリスチャン生活は「日々主と歩む」ことを通して主の臨在の中に御国をかいま見る。それは信仰生活の至福というものである。しかし,近年多くの人が地上にありながら主の御霊に導かれ天国の輝く麗しさを観た人々が大勢現れている。これはヨエルの預言「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」使徒2:10)が大きな意味を持つ。そこには「終わりの日に」と言われている。主がやってこられる携挙の前には著しい聖霊の働きが現れ,各地で死人も生き返るしるしが起こる。そういうニュースを当たり前のように聞くようになったら,誠に主の来臨が近づいているのである。たといそうでなくても,私達は聖書に照準を合わせた信仰を注意深く備えなければならない。神が望まれるように「主の携挙に備え」また地上に激しく臨む「聖霊のお働きに備える」これがバランスのとれた教会の信仰と働きとなる。


† 世界を視野とする。
 「世界を視野とし,世界と交わり,世界に出て行く教会」これは私達の見つめ続ける教会像の第一に挙げている理念である。もし,この理念(言葉)がないなら,私達は語るべき言葉を持たない。理念として固定される時それは神に憶えらればかりでなく,可児福音教会のDNAとして,その体質に形成されて行くのである。私達が強い者ではなく,世の権力者,知者でもない(1コリ1:26-27)しかし,信じる者の愚かさを通して,神の愛と力は世界を変えることが出来るのである。たとえそうでなくても,世界を視野とするという事は,今立っている所から始まっているのである。言葉を代えて言うならば,立っており,置かれている所で信仰を働かせていることが世界に通じて行くのである。しかし,大きな事や,遠くのことを見て,今の現実を逃避したり,現実の不備に,不平や不満を口実にして怠惰であるならば,不的確な人とされる。そういう群れは教会としても不的確であろう。世界に出て行くほどの教会は愛と寛容を持って難事を克服している。だから成長するのである。
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