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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

静まって (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/1/27 11:00
† 神を識る。
 「識る」と「知る」は発音で同じでも,内容で違う。地理でフィリピンのこと学んだ,この時にはフィリピンを?知った」のである。しかし,現実にフィリピンを訪れるならば「識った」ということである。「識る」は,体験的な知識なのである。ちょうど,初めてマンゴを食べてマンゴを「識った」のである。「「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩篇46:10(口語訳)ここで用いられている[ヘ]ヤーダは,知識的に知ることではなく(適切にそうするために確かめる、見ることによって)(識別して,発見する)という「識る」なのである。静まるとは新改訳聖書では「やめよ」と訳されており,共同訳では「力を捨てよ」と訳されている。三様ともに,一つのあり方を示しているのである。神を「識たい」ならば,静まる(自分の力を捨てる,自分の業をやめる)所でしか,神を知ることはない。沈黙は金という格言もあるが,クリスチャンは今,そのことが重要になっていると思わされている。

† 自分を識る。   
鏡の中の自分を見て,主に感謝していますか? 像(かたち)姿を見ることしかできませんが,神の似姿として,自分のことを神様に感謝できることは健康的だと思う。しかし,人間は自分のことが一番わからないままでいる動物である。内面を映し出す鏡を持たなければ,決して正確には見極められないのが自分自身である。しかし,そんな物理的な鏡はない。多くの人は,それだからこそ,知る必要はないと考えている。汚いもの,未解決のものと,善いものと完成しているものが混在しているのが人間だから,あえて隠れている氷山のような部分を掘り起こす必要はない。と, しかし,こういう考えは,世の中の常である解決法に留まることである。その結果,教会は人間の本質的な問題から目をそらし,底なしの罪の悪臭に蓋をして,その存在を許していることになるのである。教会が持つ,人間の問題に対する力強さは,キリストの贖いの力「聖なる御子の血潮の潔める力」ヘブル9:14 )である。心理学の手立てではできない「生ける神に仕える者とする」キリストの血潮の注ぎの中に「静まって」初めて自分の全貌(ぜんぼう)を識ることができるのである。
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成熟は相関にある(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/1/20 9:30
† 本音と振る舞い。
 本来ならば「本音と建前」となるが,立ち振る舞いの振る舞いである。中日監督の落合さんの本「コーチング」を読んでいて,より具体的実践的であることに新鮮さを覚えた。人柄をあらわすのか,全てが装飾のない本音で書かれている。一軍と2軍の選手たちをどのように育てるかという現場に生きて体験的に書かれている。人を育てるということに即して,教会の中における訓練指導の鍵となる重要な指示があると思う。・・・改めて思ったことは教会という所は,本音と建前が生まれやすいところであるということだ。最高の教え,最高のメッセージがあったとしても,それをそのまま受け留められるだけの備えがなければ,上滑りになる。かみ合わない歯車のように本音と建前が両立してしまう。そういう相克(相関)を教会は持ち,クリスチャンは無意識のなかで「振る舞いとして」そのことをかもしだし,霊性となって現れる。本音と建前の相関の距離が短い人ほど霊的に成熟していると言えよう。主の御霊による憐れみがあって,信仰の相関の溝は埋められるのであるが,気づいて祈ること,聖霊により頼むことが必要である。

† 宣言と覚悟。
 2008年は「確かなリバイバルを見る年」と位置づけられた。それは私の宣言であるが,同時に教会は宣言に従って導かれる。リバイバルは,ありようもないと,どこかで思っていたことは事実である。そういうことを軽々しく言葉にすることを厭うのが私だからである。しかし,「もういいでしょう」というような言葉がきこえるようになって,今年このテーマになった。私の勝手な宣言ではなく「主の主導によるもの」であるという,この上ない平安へとかえって満たされているのである。大テーマを掲げて,いまは全く焦る事がないのである。多くの日本人の一般的な習性は,「偉そうなことを言わない事」なぜならば,リスクが大きい,また,自分にかかる負担を負わなければならない。それで,負荷のかかることを何もしないために言わない。2008年早くもそのように,構えている人がいるだろう。大きな間違いである。そんなリーダーに誰がつきたいだろうか? 失敗を恐れ,人の評価の目を意識して無難なところに留まろうとするならば,神であれ,上司であれ,差し向ける仕事を控えるだろう。では,覚悟とは何か? 私は2008年「リバイバルを見る」ことに,信仰のありたっけを注いで,主にすべてを期待し12月31日を迎えるだろう。たとえ何事も起こらず,一人もリバイバルされなかったとしても,「私は主に従い,私はリバイバルの恵みを生きた」のである。この覚悟があるので,この2008年は「確かにリバイバルを見る年」になることが決まっている。
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成熟は相関にある(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/1/13 9:40
† 肯定的・消極的。
 positive[ポジティヴ]肯定的,積極的。と言う言葉に対峙する言葉が,negative[ネガティヴ]否定的という裏側を表す。世の中には肯定的な人間がいるし,すごく否定的な人もいる。信仰の捉え方で「積極的な思考」[ポジティヴル・シンキング]が,大きくもてはやされた時期があった。この思考はビジネスの世界では一般的であることから,問題視されることもあった。しかし,信仰が健康なら誰でも人生は肯定的に受け止められる。信仰の信念とは裏腹な状況が展開してきても肯定的に神に期待することが出来る。信仰にとって大切なことは次のことである。すなわち,私達の神は全知全能であり,わたしに対して最善のお方である。このお方の故に,この世の人生が「意味を持ち価値がある」のである。これが信仰者の揺るぎない最重要な肯定性である。この普遍の肯定性を,卑しめ崩そうとして働くのが,世の力を通して働くサタンである。信仰を否定的にするために,世の栄華に迷わせるか,人を持ってあなたを誘惑し堕落させるか,試練や不信に導いて失望させるか,あまたの方法で挑んでいる。だから,生きている限り,神に対して消極的になるように働きかけられている事を知るべきである。あなたが礼拝を守り,交わりをするのは神を肯定し,魂が神の恵みで満たされ,成熟してゆく人生を歩むためである。

† 危機は好機である。
 2008年は戦後63年となる,敗戦当時の日本は天皇という神を失い,より頼む新しい神を求めていた。焼け野原の大都市の中で救いを求めていた。マッカーサーが要請した宣教師達が日本にやってきて伝道し,多くの人々が福音に耳を傾けたのである。こういう傾向は20年後も続いていた。私が救われて間もない時に当たるが,20歳そこそこの私が路傍でマイクを片手に信仰を持った証詞をすると,通行人が立ち止まり輪が出来るほどだった。天幕伝道をすれば,決心者が50人もそれ以上もの人がいた。敗戦から25年間は蒔けば刈り取れる時期だった。・・・・・しかし,働き人がいなかった。集うべき会堂もなかった。終戦と宣教直後に人材育成が第一に置かれたならば,今よりは何倍も救われている人がいると思われる。やがてオリンピックが開催され,高度成長期になると,教会からは子供が去ってしまった。思いもよらないほどに教会は世の中から遠ざかってしまったのである。イエス様も言われた「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」マタイ9:12)危機を脱し丈夫になってしまった日本人に,福音が取り憑くには知恵がいる。しかし,社会は大いに病んでいる,それは霊的な病人が数え切れないほどいるということである。祈りと,うめきと断食を持って今の時を好機に変える事は可能である。
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成熟は相関にある(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/1/6 9:10
† 口も手も出さない。
 昨年,中日ドラゴンズを日本一に導いた落合博満監督は,「オレ流」という言葉を造った人である。我が儘を通すという,オレ流ではなく理にかなったオレ流なのである。落合さんは社会人野球から26歳でプロ選手になった。金田正一監督と打撃の王様と呼ばれた山内一弘コーチがいた。落合さんが打撃練習をしているゲージの後から,二人の話し声が聞こえてきた「山さん,この打ち方じゃープロで通用せんぞ」コーチも「そうだね」と言った。そういう中でもコーチは,真剣に教えてくれたそうである。・・・・・ある時落合さんは山内コーチに「俺のことはほっといてください。それで駄目ならクビで結構ですから」と独学でバッティングを身につける道に歩むことになる。山内コーチはそれ以後口も手も出さず見守られた。しかし,結果的に,一人で悩み抜いたことで,バッティングの奥深さを学び,自分のスタイルを身につけることが出来たのである。落合さんが三冠王を手にするまでになったとき。必ずと言っていいほどルーキー時代の山内さんから受けた指導が身になっている事を思わされた。この二人に共通することは内角球の強い球を巧く打つ事であった。「教えられ指導される」ことと別に「独学実習すること」この相関を生涯の努力とするところに落合さんの「オレ流」が生まれたのである。

† 画像は虚にあらず。
 最近の高画質テレビには驚かされる。まるで写真をみるような鮮明な画像である。昨年は天安門や万里の長城をこの目で見たが,改めて世界の遺産と言われる造形物や大自然をハイビジョンなどでみると,それで十分だと思うほど堪能する。人間が赴ける場所は限られている。しかし画像によれば鳥瞰的に全体を見渡せるなど,圧倒的である。例えそこに行かなくても,どの様な角度からも幾らでも見ることが出来るのがうれしい。「百聞は一見にしかず」と言われたが,テレビ時代となり大画像の繊細な画質によって,このことわざの多くが塗り替えられているのではないかと思うのである。名所,古跡を幾らか尋ねたならば,あとはその感触のイマジネーションを生かして,世界の遺跡を画像で尋ねることで相当堪能することが出来ると思う。画像がリアリティを持つのは,私達の感性の成熟度によって違うが,現風景を眺める事も,その鮮明な画像を眺めることも,脳味噌をたくましくすれば,人生の豊かさにおいてそれほどの相関はないと思うのである。
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成熟は相関にある(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/30 9:10
† 強い光に濃い影。
 科学的合理的な真理が,霊的にも適用されていることがある。光と陰の関係もそうであるように「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ロマ5:20)と言う関係が聖書で述べられている。多くの罪を赦された者が,より主を愛した。(ルカ7:47)という,イエスの言葉も記されている。全く違和感なく受け入れられている相関のコントラストである。さて,私達はよい人間であろうと振る舞う者である。クリスチャンとして多くの目を意識したり,あるいは特定の人の目を気にする場合には反応的になってしまう。そこに生まれるものは,抑圧された精神性の不自然である。人間は自分にプレッシャーとなる者に偏(かたよ)る。悲しいことに、その人に気に入れられることに集中する。それによって仕事が出来るかもしれない。しかし,そういう育てられ方をした人は,人にも同じ事を求めてしまうのである。しかも,特定の人以外には霊的な品位のある尊敬も払えず,そういう言動を平気でするようになってしまうのである。教会は何よりも神を畏れるように訓練,教育される場所である。それによって自分の罪深さに敬虔になり,より神を愛するためである。人を恐れる影は「恵みの影」とはならないのである。

† 2007年の終わり。
 昭和が終わって20年を経た。先週の金曜日は25名の祈り手がそれぞれ1年間の恵みの証詞をしてくれた。限られた幾つかを語ることしかできなかったに違いない。何にもまして一人一人の恵みとなったものは「自ら気づいたこと」である。自主性とか成長は,本人の気づきに基づく,多くを勉強しても,礼拝を守っても,気づかされ驚くのでなければ真理がものになならない。私達の教会のように信徒を、神の国の影響力を持つリーダーに育てようとしている場合,気をつけなければならないことは「出来る様になる」事である。知識的なこと,技術的なことは,学んだり,真似たりすればいい。そこにだけに赴いてしまうことが問題である。聖書の学びも,礼拝することも情報収集に偏っては悲しい。しかし,「出来るものになる」こと事態は称賛に値することは言うまでもない。ただ,そこにだけに自分を置いては成長はない,霊的な成長は,さらなる真理に「気づかされ」新鮮な驚きを与えられる事である。それがない人は成長が止まったままである。2008年は「出来る者になる」事と「真理に気づく者になる」この相関に生きる事だ。
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