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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「こだわりを持つ」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/1/13 1:00
† 依存する根拠。
 子供の頃、思ったことは、友達は男らしいな、と思ったことだ。ある友達は男気があり自ら行動し積極的である。その評価は別として、そうなれることに感心した。今で言う自立心が旺盛なのである。その子の家庭環境が必ずしも優れているわけでもなかった。川で遊んでいると友達は石から石へヒョイヒョイと渡っていくが、それがとても怖かった。私が幼少の頃に両親が過保護的に危険と思われる行動を私にさせなかった事があった。その影響が大人になってもある。愛されて育つことと自立の関係はともかく、依存の心が自立を妨げると良く聞く。この世では誰にも頼らず自分で出来る事が称賛されるが、それで良いのだろうか?主なる神は人を創造されたが完全自立させなかった。造り主である主なる神に依存すること。主なる神の言葉に服従する事が完全な人間を意味した。神から自立したら自己破壊である。依存することは必須であり重要な私達の所与の宝である。

† 真理とはなにか?
「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」ヨハネ18・37)この主イエスのことばに対してピラトが呟いたのが「真理とはなんですか?」38節)である。私達が最もこだわらなければならないことは「真理に属する者」ならば、真理を徹頭徹尾探究し真理を知る事に人生を掛けるべきだと思うのである。真理は永遠の主なる神のようである。また地上の人間が最も喜ばしく輝ける不偏のテーマである。主に救われたその瞬間から真理の無尽蔵の富の中に生きる者とされている。それが「神の子供とされた特権」ヨハネ1・12)である。真理を知る喜びにもっともっとこだわって生きる輝きを増して行こう。
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「こだわりを持つ」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/1/6 1:00
† 謙遜のまこと。
 さまざまな人格との出会いが人生の多くを学ぶ機会である。教会人であるならば、皆おなじ信仰を持つが賜物は異なっている。それはキリストの身体を補い合う互いの特質であって麗しいものである。しかし、私達の人格はキリストに似る者となるようにされている。私達が天国に持ち帰れるものはこの世で培われた人格(品性)である。信仰生活のこだわりがこの人格(品性)の成長に向けられることが重要だと私は思っている。私達は自分の中に神によって結ばれる「実」を結ぶのである。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」ガラテヤ5・23)この事に、こだわりを持たないと謙遜のまことの意味がわからなくなる。字義的な謙遜を知るに留まらず、いのちを産む具体的謙遜に進むためにはキリストの品性(人格)に近づいて行くことが肝要である。その時、謙遜の何たるかがわかる。

† 自分の根に気付く。
謙遜はどの様にしてわかるか?前項に掲げた事によってもわかる。しかし、他にも多々ある。謙遜傲慢ということばがあるように、謙遜を振る舞いはするが頑なな傲慢さがあること。また、極度の劣等感、心因的な原因による卑屈さが謙遜の中身である事もある。たとえ、どうであれ健全さはキリスト以外にはない。私達罪人は、どこかに自己意識が働いており、自己尊厳のための言葉使いをし、隣人を低めたり、卑しめたりする。これこそが「その人の根」なのである。自分の「根」がキリストではなく自分にあるならば、どの様な振る舞いの中にも「自分を認めさせたい根」が息づいているのである。キリストは偽善者と対決されたように、聖霊は私の内に偽善的な根がある限りにおいて十全に伴われることはない。聖霊が伴われるためには、自分の根を葬ることにこだわる事だ。
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「こだわりを持つ」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/30 1:10
† 神は神である。
  神が神であることは当たり前のことだが、私自身を静かに考えてみると、時と場所によって、またさまざまなシチュエーション(立場、状態、事態、形勢 局面)で神を神としているかを問うと曖昧さが見え隠れしている。それが人間というものかも知れない。しかしそこに甘んじてしまえば大変ご都合の良い人間だと思うのである。奴隷のヨセフが女主人に強引に言い寄られた時、ヨセフは神を神として義の行動を取ることが出来た。日本には「据え膳食わぬは男の恥」という諺があるが、これに従えばヨセフにはこの上ない据え膳であった事になる。日本人は今、男も女も状況や局面に流されやすくなっている。クリスチャンであるならば、ヨセフを見倣いあらゆる立場や場面で神を神として義の道に立ち神の聖さを現したい。なぜなら主なる神はそういう人を尊く用いられるからである。

† おもねない判断。
  おもねるという事はどう言うことか? 気に入られようとする事、へつらう事である。これが私の内にあるとするならば、真理に生きるという事はたちまち困難になる。その根幹には「私が自分にへつらう」という心理があるからである。自分にへつらう者は人にも大衆にもへつらう。今の時代において教会が変貌しつつある。それは神中心から人間中心になりつつあることだ。これを劇場型教会とも評されるが、中心が会衆(人間)に向かうということである。劇場でわかるように役者は観客の拍手(評価)に向かっている。教会は主なる神と御言葉に向かうべきなのに、会衆にサービスすること変わりつつある。アメリカの教会が衰退しつつ在るのはこのためである。人や会衆におもねない「神を畏れる」教会にこそ活路が開かれるのである。その福音主義のために人が去ったとしても問題ではない。
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「こだわりを持つ」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/23 1:30
† クリスマスのこだわり。
  ある都心の教会では、クリスマスの礼拝には信徒よりも未信者の方が大勢を占めるそうである。喜ばしい一面ではあるが、救いを求めてやってこられるわけではない。日本人はクリスマスをイエス様を祝う祭りのように感じているわけだ。すると牧師は思いきった御言葉を語るクリスマスメッセージが出来なくなると言う訳である。イエス様も群集には、ご自身を任せられなかったが、かれらを追い払うことはされず、そのままにされた。しかしながら、クリスマスにはこだわりがある。「喜びの訪れ」が、あなたに「知らされる」ルカ2・10)という一大事であるということだ。私達は、なんとかしてクリスマスシーズンを通して、一人の人が救いに至るように奉仕に励んでいる。それでも誰も主を救い主として受け入れないかも知れない。それでも日本人が最もイエス様に近づいているこの時期に「喜びの訪れ」を「知らせたい」と切に思う。

† 一つだけだ。
  こだわりのある人とこだわりのない人という問題も含めて、改めて自分を叩き台にして考えてみたい。「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」ルカ10・42)これを主イエスが語られたことを根幹にしたい。人によって信仰の内容が違ってくるわけだが「こだわり」が大きく関係していると思える。ある著名な牧師から「あんたはこだわる方か」?と、尋ねられたことがある。その時、私の返事は「こだわる方ではない」といった覚えがある。私の感覚では「幹の部分と枝葉の部分は違う」という理解である。主イエスもマルタにむかって言われたことは、大事なもの(事柄)をわきまえるようにしなさい。と言われたに違いない。教会や信仰の問題で見られることは、枝葉に属する事柄で根幹を揺るがすような事件にしてしまう傾向があるからだ。これを霊的な問題としてわきまえるためには、その人の霊を見分ける事と、知識や知恵によって主イエスを崇めるように対話することだ。
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「人の立つ位置」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/16 1:00
† 自分の実在の場所。
  大上段に構えて「生きる」を考えるとするならば、この10行ほどで言い表すことはアホ見たいな話である。しかし、自分が世にあって生きるとなれば、世界の中の自分の生きざまを立位置にする。普通、人間が自分を言い表すときには家族構成や、関わる国や地域、学業や仕事や組織などの置かれた環境から自覚された自分を語る。しかし、世界などに左右されないキリスト信仰に生きるとすれば、神の中に自分の立位置が生まれる。「・・・・私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)世界(世)の中にあって世に在らずと言う立位置が現実となる。世の中の希求する方向とは180度違っているわけである。国籍が地上にない私達は「キリストのおいでになる」のを待ち望むのである。たとえ私が一国の長だとして最善の働きをしても「心は」天の国籍に在るのである。私達は霊知によってこの世に国籍がない事を知っている。この世にありながら「神の中に生き動き存在するのである」使徒17・28)

† 主にあって喜びなさい。
  聖書によれば私達は「力から力に進み」 詩84・7)絶えず「主にあって喜ぶ」ピリピ3・1)者とされている。しかし、そうではない事が最大のキリスト者の危機である。観察をしてわかることは、キリスト者なのに喜びがない。キリスト者なのに力から力へと進んでいない。救いとは「主にある者」とされたことである。そのこと自体が爆発的な喜びであると使徒パウロは語っている。主に在る絶大な広さ、高さ、深さを、キリスト者は探究し発見して、ますます大きな感謝と喜びに満たされるのである。聖書の語る喜びは「主に在る」事によって泉のように湧き上がってくる。それを置き換えて「何かをすること・何かが出来る事」を喜びにしているとするならば、そのたぐいは時と共に枯れてなくなる。たとえ奉仕がなく、何も出来なくても「主にあって喜ぶ」信仰が重要である。「主に在る」ことが私の全てです。と告白しょう。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)
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