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牧師の想い

牧師の想い - 202008のエントリ

「流れの初めと途上」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/30 8:00
† 溝を掘ること。
 私達の快適な生活を支えてくれているのは、普段あまり気にもしない下水道の整備ではないかと思う。上水道はいち早く整備されたが、下水道は大きな設備を要し、工事も大がかりで財源がかかる。1976年3月、可児市(当時可児町)に開拓伝道に入り、現在の新会堂が建つ前年(2003年)に、下水道が埋設された新道路が、建設用地の前に造られた。市会議員に尋ねると、「ここは下水道は通りません」と聞いていたので、奇跡が起きたと感じた。可児市に来て28年間、下水道の恵みには預かり知らなかったが、大きな溝が掘られるのを特別な思いで眺めた記憶がある。「彼は次のように言った。主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む』2列318-19) さて、私達はどの様な溝を掘るべきかを、主イエスに尋ねたい。風も大雨も見ないのに、主なる神が生命の水を溢れさせてくださる。その御心とされる所を掘りたい。私達は、異なる所を掘っているかも知れないからだ。

† 霊的生命の源流。
 流れは、川に付随して想像しやすい。流れは気流でもあり、それは風として流れている。それと、私達の日々の霊的生命のために流されている物がある。旧約聖書では、それは最上のオリーブの燈油である。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝・・・・」ゼカ4・12)私達の霊的な生命のともしびの油も、神に属するものである。主イエスはゲッセマネ(アラム語で「オリーブの油搾り」)の園で、汗が血に変わるほどの苦悶で押しつぶされた。その、主イエスから溢れる油である。「私を輝かせる」ための燈油である。私達は、この夏の日照りの中で水を飲まなければ生きられない。等しく、霊的な生命も、乾ききっている世的な砂漠の中で、枯れてしまうのである。主の御前に出て、主イエスからの油の供給を受けよう。多量に求めても拒まれる事はない。主イエスの恵みの油だから。1)主イエスから油を受けないならば、私は輝く命を失う。2)そのためには、主イエスのもとに、絶えず訪れることとする。
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「流れの初めと途上」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/23 8:50
† 濁りがないこと。
 先日、ある牧師さんが鮎釣りの現場を動画で配信されていた。ご自身が友釣りをされるベテランだ。私も中学生時代から鮎の友釣りをしていた。当時は友釣りの解禁日は村を挙げてのお祭り行事のようで、川は明け方から釣り人で一杯になった。思い出すことは川は輝いていたことである。要するに透明度が高く清流であった。しかし近年山間部であるにも関わらず、川のかたちは同じでも、キラキラする輝きがない。友人によると家庭洗剤や農薬(燐)によって汚染されているという。川底が汚れ光らないのである。直ぐ近くを流れる木曽川だか、流れは変わらないけど川底は光らない、同じ現象で、今は誰一人友釣りをしている人がいない。人間があるがままを生きる事で、起こってくることは「汚辱」を生みだすことである。主イエスとの鮮烈な出会いも、しばらくすると忘れ去ってしまう。密室の祈りを失い、安易なデボーションで良しとする。これらが、濁りを発生させるのだろう。主イエスから目を離さず(ヘブル12・2)キラキラと輝く生命の水の中で、神の子どもで在り続けよう。

† 途上はメンテナンスが要る。
  新しい機械装置が導入されると、高品質の製品が効率良く産出される。まさに新品にまさるものはない。日本製の工作機械は世界でも評価が高い。品質が良く、壊れにくい事が挙げられる。もっと身近では、便利なアイデアに満ちた工具が色々と紹介されているのを見る。問題は機能を支える品質が確かか?と言うことだ。先日も購入したばかりだという機器が動かないという。それで電気系統を点検、変圧器からモーターに繋がる部分で接続の不十分がわかった。新しくても安易な設計がされているためである。このようにメンテナンスで解決できれば幸いである。子供の自転車では大、中、小と多々あり、ほとんど他の家庭からの中古車だ。しかし、メンテナンスを施せば、自転車は新品同様に走り、遜色はない。新品の時期は短い、あとは絶えずメンテナンスによって初めの機能を取り戻すことである。・・・・教会の交わり、信仰生活、証詞と伝道も放っておけば、錆がつきがたがくる。聖書的で霊的なメンテナンスを怠らなければ、主の交わりの教会は、健全さを持続して行けるのである。
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「流れの始めと途上」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/16 1:10
 † いま起こっている事。   
 新しいと言うことは、昨日よりは今日という事とわきまえる。聖書は、そういう私達に新しい思考を与えてくれる。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道の書1・9)新しい製品や商品のことではなく「日ノ下」における、人間の問題が言われている。画期的な人間の新しいスタイルと言うような見出しに引かれても、既にその原型が昔にあり、新しいとはいえないと言うわけだ。私達が期待するリバイバルも新しいことではなく、昔からあったことであり、源流を訪ねて学べることに違いないのである。いま必要な、リバイバルは:未知の新しいものではなく、昔のままの様相で起こされるものであるだろう。神には変わりがない。私達は瞬間、瞬間を新しく迎えているが、新しいこれからに目を留めすぎていないか? これは考え物である。むしろ過去を、昔を顧みる謙虚さがあれば、画期的な新しいこととして、そのリバイバルが昔あったように、今、これから起こされるのである。リバイバルは過去から学ぶ人かち起きてきた。「昔起こったことは、これからも起こる」からだ。
 
† 尽きざる供給。
  真夏の高温が積乱雲を創り出すと、豪雨を伴った夕立が起こる。関東では8000の落雷が計測されたという。水蒸気が雲となり雨を降らせ、それが源流となり、川となり海に注ぐ。この循環運動が地球の生命体に命を維持させている。自然とは神の知恵である。聖書では「生ける水」として救いに関係ずけられている。「乾いている者は私のもとに来て飲め」ヨハネ7・37)主イエスを信じる人は、その人の魂から、生ける水の川が「川々となって流れ出る」のである。主イエスの与える水の不思議に圧倒される。生命と水が一体であるように、キリストが与える水は、永遠に涸れない生命の泉となる。私達が生ける水の源流として、しかも「川となる」多くを潤し、多くの生命を養う力をもつ。私達が主イエスにつながり続ける事によって、私達は泉となり、生命の水(神の恵みと祝福)をながしつづけられる。家族への真心となり、隣人への親切や、おもいやりとなり、新しい生命を生みだして行く事になる。誰れかを潤す喜びに生きよう。 
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「流れの始めと途上」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/9 2:00
 † 見ているが,見ていない。   
  コロナの災いによって、多くの人々が暑い夏を家で過ごす事にしている。テレビが良く売れているそうだ。店頭で見る4K、8Kの画像が大画面に映し出されると、そのリアルさに驚く。世界中の名所、避暑地、ヒマラヤまで行かずして旅が出来るのである。初めてのアメリカ渡航は夏で、空からカルフォルニアを見た時の印象は、褐色の大地だった。このような実体験がなくても、アメリカ自体は知性を通して認識出来る。1999年の映画「マトリクス」は「見えているこの現実世界は夢なのではないか?」この物語の基盤(マトリクス)である。モーセ、トリニティ(三位一体)、ネブカデネザル号、シオン、救世主、など聖書にある言葉が多く出てくる。今、私達は神の被造世界を見ている。しかし「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」黙示21・1)今の世界は架空となるが、いま私達はその中にいる。しかし、主イエスの弟子達は確かなものを見ていた「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」2ペテ3・13)仮想空間(この世)に霊的な理解(見解)を持とう。
 
† 不認識?バカな !
 そんなバカな!と、叫びたくなるようなことが身近に起こる。幸い人間関係上のことではなく:物理的なことであった。エブソン・プリンター(PX-5V)でインクカートリッジ(純正)を取り替えたら「認識出来ません」 と表示。自分の手足を認識しない?そんなバカナ!というわけである。それと電磁的なトラブル「sdカード、usb、コンパクトフラッシュ」など、注意して差したり、抜いたりしないと貴重なデーターが消失する事がある。・・・・さて、私が神の御前に立つとき「お前を知らない」と不認識とされたら、そんなバカな! と思うだろう。自分では信じて生きてきたつもりであったから。しかし、信仰生活の途上で、神の御前に大切な内容が失われていたのである。信じた初めの頃はまともであったが、神の器(メディア)としての長年の生活の間に、大切な油(データ)が失われていた。思慮深い信仰生活から、安易な世的信仰を選んでいたのである。福音の純粋な源流から目を離し、自分よがりな生活は、現代のキリスト信仰の大きな危うさとなる。
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「流れの始めと途上」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/2 1:10
 † 源流をたどる。   
 日本には四季にもう一つの季節があるという人が居る。それは梅雨である。日本独特なのかも知れない。今年はしとしとと降る雨ではなく、豪雨となって日本列島に洪水をもたらした。気象情報で日本列島が映し出されると、日本は山と川の国である。数え切れない谷が流れ、川となって合流し大海に流れ込んでいるのを見る。山間で子供時代を過ごした身には、谷と川は自分の成長と深い関係がある。どんな川にも源流がある。その幾つかの谷の源に探検したことがある。汚れない水が湧き出している所には子供ながら厳かな思いを抱いた。「清水に魚棲まず」とは、源流に近ければ不純物もなく、ブランクトンもいないし、水は冷たい。(ヤマメやイワナは清流に棲む)これを「人間潔癖である人には、人は従いつくことがない」と言うわけだ。余りにも観察的側面に過ぎると思える。私達の救い主イエスは、潔癖高潔においては、最高位の神であり「罪は犯されませんでした」ヘブル4・15)要するに高潔な主イエスには、愛と憐れみが溢れていた。これを見過ごしてはならない。私達は源流のように清らかであり、神の愛に満ちていることだ。人が棲みたいのは「清い品性と愛の中」である。私達の信仰はそのためにある。
 
† 流れの途上。
 長い千曲川をバスで眺めながら富山に行った事がある。どの所でも流れ続けている。どの時でも流れている。まさに変わり無きことを教えられた。天地創造を源流とするならば、主イエスの十字架と復活は完成である。その源流の終わり(完結)なのだ。主イエスの復活の後にある私達は、主の来臨までの「途上に」活かされているわけである。私達は、与えられている家族のために、身近な隣人と同族のために「地の果てにまで」使徒1・18)主イエスによる救いがある事の証人として存在する。どんな時にも、どんなところでも、神の生命の川は流れている。その現実を生き生きと生活させてくださるのが聖霊様である。証詞をしたいけれど、どの様に語るべきか言葉がわからない時、「・・・・どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです」マタイ10・19) 「証し人」の助け主として知恵と言葉を与えられる。
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