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牧師の想い

牧師の想い - 20200510のエントリ

 「果てを見る」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/10 1:10
 † 期待されている。   
 2020年の東京オリンピックを始め、全てのプロスポーツ、高校総体、春の甲子園などが中止になっている。ルーキーとして期待されている多くの選手がいるが、その活躍も見ることが出来ない。いずれ檜舞台に現れる時を楽しみにしたい。さて、誰であれ人間は期待される必要がある。子供が将来を期待される存在であるように、どんな人も、世代に関係なく期待される必要がある。期待されるとは、信頼されること、可能性を認められることである。要するに全ての人がルーキーなのだ。可能性を一杯持っているのである。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42・3)主なる神は、どんな人にも、絶望している人にも、可能性を認めて期待しておられる。人間の「果て」には、常に、いつでも「期待されている」愛がある。私達は、時として自分の可能性が見えなくなるときがあるだろう。しかし、主の御顔を仰げは、私の出来る事が見えるようになる。愛、喜び、平和という神のエネルギーが生まれ、感謝が出来る。執り成しの祈りが出来る。それに、多くの愛の業を生み出せるのである。

 † 生きる事とは・・・・。
 新聞を見ていたら「生きる事は死ぬこと」と言う言葉があった。ふと、日本人には理解しやすい言葉ではなかろうかと思った。一休和尚の「元旦や冥土の旅の一里塚めでたくもあり、めでたくもなし」がある。正月を迎えて祝い気分の人々に向かって詠んだとも言われているが、一種のアイロニー(皮肉)である。しかし、人の生きる事を真面目に捕らえたら「生きる事は死ぬこと」に間違いない。より良い生き方は、善き死に繋がるという意味を込めていると思われる。私達キリスト者は「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・12)と使徒パウロの言葉に思い当たる。この世に生を得て「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」23)と、パウロは言う。重要な事は、世を去るというリアリティは、聖霊により、確信させらる死に打ち勝つ自らの死である。このように喜ばしいゴールを私達は持つので、「生きる事はキリスト」という喜ばしい実存の日々になってゆくのである。
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