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牧師の想い

牧師の想い - 202005のエントリ

 「果てを見る」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/31 1:00
 † 私達の不要不急。   
 「不要不急」が令和2年を印象づける言葉になるに違いない。新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために要請された言葉だが、その意味は「重要ではなく、急ぎでもないこと」である。私達も優先されるべきは何か?と常に考えている。そして、その優先したことが、続けられる事に気がついた。決して悪いことではなく、むしろ賢い人のする事と思われる。聖書をくまなく信じるものとして考えさせられるのは、その中で不要不急(重要ではなく、急ぎでもないこと)を設定しているのではないか? その事に思いがとどまった。コロナが日本にきて、日本のこれまでの医療の在り方の不備がわかり、機関の仕組みの悪さ、IT(デジタル化)の遅れなどが浮き彫りになったのが日本である。日頃の無事安泰を当たり前にして、不要不急とばかりに削減し、本当の危機を見据えた、安全な未来を築いてはいなかったのた。聖書に従って生きる私達だが、地上的な豊かさの中に生きるがゆえに、信仰から不要不急のものとして、差し引いてしまっていることがあるに違いない。主は言われる「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」マタイ25・3)

 † 果てをいかに見るか。
 信徒になって間もない頃、驚いて読んだ文章があった。60年も前の事だが、いまも新鮮である。・・・・「深い井戸の底から空を見るならば昼間でも、星を見ることが出来る」と言うものであった。衝撃が走った、昼間に見えるはずのない、果ての星が見えるのか?聖書に「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」マタイ5・5)私には神が見えないので、神は日頃は果てにおられるかのようである。しかし、神は見える? 主イエスは「神を見る」ことが出来るといわれている。「神が見える」と言うことと「深い井戸の底」から見える、という関連性に留まるようになった。心の清い人とは、真っ暗な井戸の底にまでおりて行ける人。誰もが嫌がることをする人の事に違いない。その人は悔いた心へ、砕かれた魂へ下って行く人に違いない。そういう人が神を見るに違いない。インマヌエル「神我らと偕におられる」という、リアリティの中に生きる人なのである。神は遠い果てにではなく、身近に見られるお方としておられる。
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 「果てを見る」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/24 1:00
 † 患難の時代。   
 「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます」ルカ21・11)先日、インドを襲った巨大サイクロンの様子が報道され驚愕した。日本では連続して地震が起こっており、スマホの緊急警報が鳴って緊張した。アメリカでは二つのダムの決壊で大洪水が起こっている。新型コロナの流行は全世界に広がり感染者は510万人に達し、死者は33万人を超えるに及んだ。これからも拡大して行き、第2波:、第3波の脅威も予測されている。100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)では、5億人に感染、死者は5千万人とも言われる。人間の文明は進んで行くが、疫病をもたらすウイルスも強靱になって現れてくる。クリスチャンだから、この災いに遭わないというわけにはいかない。そのためには、主イエスが私達の中に創り出された、潔い生活を全面に押し出して生きることだと思う。これからは、今までにない多くの制約の中を歩む事になる。しかし、キリストに繋がる私達の自由は変わることはない。日々の喜びと感謝も変わらない。ただ、身体を健やかにする運動と、食生活に注意し免疫力を増す努力をしたい。

 † 悪いことは良いこと。
 このフレーズは、我が教会ではよく語られる。私達人間は、不幸と言われる出来事にあいたくない。災い、困難、試練、貧困から守られるために:神を信じているのが普通である。祈る時には、教会に連なる全ての人が幸いであるように、豊かであり平安であるように願う。そういう教会に、そういう信仰を持つ者に、予期しないことが、悪いことが起こってくる。そのタイミングで「悪いことは良いこと」と霊的な宣言をするのである。信仰の果てには「良いこと」のみがあるからだ。しかし、健康で過ごしてきたと言うことは、病も起こることを意味する。また、大過なく主の恵みの中で支えられてきたことは感謝であるが、試練や新たな困難に逢わせられる事でもある。今までにはなかった悲しみや、寂しさに出会う事も起こるかも知れない。それは、ヨブの身辺に、起こった試練の何事かに出会う事を想定できる。自分の信仰の果てのために、準備をして自分に起こる、悪いことを「良いこと」に、変えてくださる主イエスの信仰に、全き信頼をして行きたい。
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 「果てを見る」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/17 1:10
 † この世の神との戦い。   
 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」 2コリ4・3-4)福音に覆いを掛けているのは、敵である、この世の神(悪霊)である。日本の人々はキリストの輝きを、知る事も悟ることも出来ないでいる訳である。私達は、隣人に掛けられている覆いを、御霊の剣で突き破って、取り去り、見えなくされている目を開かせる働きが必要なのである。私達は知恵と知識において賢くならなければならないが、このお働きは、主なる神の成される御業である。第一に、神のお働きが求められ、祈られなければ達成されない。第二は、今の新型コロナにあっても、私達キリスト教会の一致した祈りが必要だ。聖霊なる神のお働きを求めるとともに、私達一人一人が「聖霊の宮」として、キリストに捧げる事である。この時のために信仰が与えられたのである。神の栄光のために、日本の多くの人々の救い(リバイバル)のために、神を崇め礼拝しょう。

 † やるべきことがある。
 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです・・・・」使徒17・28)このように、私の今は「生き、動き」していることが存在を意味していることになる。私は牧師なので常に聖書を学び続け、祈り、話しもし、訪問し、人々と交わりもする。その最も願い求めていることは、神を知り、神を見るほどになりたいことである。しかし、それはクリスチャンならば誰もが求めていることだと思う。この世に存在する限り、やり続けることとして位置づけられている。なお、そのために多くの神の恵みについて語るべきこと、伝えるべきことがある。なお、そのために多くの未読の書物がある。また、次々と新しい真理に興味が湧いて研究したくなる。それが世に置かれた私達である。こうしてみると、自分の体調が守られる限りにおいて、同じことを、変わりなく続けて行くということになる。私達クリスチャンの果ては、尽きる事がない、ということである。未来は、しぼんで行くのではなく、広がって行くのである。
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 「果てを見る」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/10 1:10
 † 期待されている。   
 2020年の東京オリンピックを始め、全てのプロスポーツ、高校総体、春の甲子園などが中止になっている。ルーキーとして期待されている多くの選手がいるが、その活躍も見ることが出来ない。いずれ檜舞台に現れる時を楽しみにしたい。さて、誰であれ人間は期待される必要がある。子供が将来を期待される存在であるように、どんな人も、世代に関係なく期待される必要がある。期待されるとは、信頼されること、可能性を認められることである。要するに全ての人がルーキーなのだ。可能性を一杯持っているのである。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42・3)主なる神は、どんな人にも、絶望している人にも、可能性を認めて期待しておられる。人間の「果て」には、常に、いつでも「期待されている」愛がある。私達は、時として自分の可能性が見えなくなるときがあるだろう。しかし、主の御顔を仰げは、私の出来る事が見えるようになる。愛、喜び、平和という神のエネルギーが生まれ、感謝が出来る。執り成しの祈りが出来る。それに、多くの愛の業を生み出せるのである。

 † 生きる事とは・・・・。
 新聞を見ていたら「生きる事は死ぬこと」と言う言葉があった。ふと、日本人には理解しやすい言葉ではなかろうかと思った。一休和尚の「元旦や冥土の旅の一里塚めでたくもあり、めでたくもなし」がある。正月を迎えて祝い気分の人々に向かって詠んだとも言われているが、一種のアイロニー(皮肉)である。しかし、人の生きる事を真面目に捕らえたら「生きる事は死ぬこと」に間違いない。より良い生き方は、善き死に繋がるという意味を込めていると思われる。私達キリスト者は「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・12)と使徒パウロの言葉に思い当たる。この世に生を得て「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」23)と、パウロは言う。重要な事は、世を去るというリアリティは、聖霊により、確信させらる死に打ち勝つ自らの死である。このように喜ばしいゴールを私達は持つので、「生きる事はキリスト」という喜ばしい実存の日々になってゆくのである。
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 「果てを見る」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/5/3 1:00
 † 私達への御心。   
 主イエスは私達のために、父なる神に祈られた「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」ヨハネ17・15)主イエス様の救いの御業から考えるならば、罪から救われた私達が、直ぐに完全に父の御許に取り上げられることが望ましい。しかし、そうではなく、この世にあって信仰生活を続けることを望まれた。救われて間もない未熟児として父の御許に行くのではなく、私達が信仰を働かせることを通して成長し成熟して、父の御許に帰ることを望まれたのである。「悪い者」とは悪霊共であり、その手先となって欲望に生きる人々である。その人々のために、主なる神は、世の人々を愛する偉大な力を私達与えられた。私達が信仰生活をする大切な目的は、敵対する人々のために祈り、福音を証詞して、一人の滅びる人を救いに導くためである。この事を主イエスは全ての地上のクリスチャンに願われている。そのために求める者には、惜しみなく聖霊の恵みと愛の力を、注いでくださるのである。

 † 腹をくくる。
 私達はいつの時か、腹をくくる時が来る。覚悟をきめること、決意を固めることである。「腹」とは心、気持ち、気力、と言う意味である。ことの成り行き、果てを見極めて腹をくくる。私の友人は、末期の喉頭がんに襲われた。晴天の霹靂(ヘキレキ)まことに衝撃的な出来事であった。彼は大学病院で治療を受け一次的に治癒が見られたが、地元の病院に帰ってきてから、しばらくして容体は悪くなっていった。彼の娘さんから彼の最後の話を聞いた。彼は薬学に通じていたのだが、回復の見通しがないと腹をくくり最後を見切った。彼は、点滴をやめ、最後の死の訪れを迎え入れたのである。誰にもやってくる死を、自ら迎える決断をした彼の男気に敬服する。私の尊敬する先輩牧師は、召されることに臨んで日記に綴っておられた。「いよいよ自分の時が来た。とても厳粛なことだ」と、信仰にある多くの恵みの体験を与えられてきた。しかし、果てに来る死を体験していない。最初で最後の死の体験に対して、腹をくくる必要がある。御言葉と主の御業を通して、信仰により勇敢に迎えるために。
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