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牧師の想い

牧師の想い - 202003のエントリ

「直向(ひたむき)」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/3/29 1:00
 † 伴う試練がある。   
 最も、ひた向きに生きられたのは、主イエス様である。確かに歴史の中には、あらゆる分野において、ひた向きに生きられた、名高い多くの方々がおられる。それにもかかわらず、主イエスは最高位の神である身分を棄てられたことから、そのひたむきさの比類の無い高さをお示しになっている。もし、その驚くべき慈しみを驚愕を持って受け入れ、信じられたなら、主イエスは主なる神の贖いをたやすく進められたに違いない。しかし、神の受肉(神が人間イエスになられた)を、ご自分の民イスラエルは受け入れなかった。思うに信じるという行為は心にある。論理が通って正しく、実体が伴っても、心が信じたくないなら鋼鉄の壁を心に立てることと同じである。主イエスは、愛と神の真実の義において、不信仰の壁を凌駕する必要があった。それが十字架である。それは未だかってない試練の杯である。それは神の御子イエスが、父なる神に棄てられる絶望の十字架である。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」ビリビ2・18)ひた向きに、完全に歩まれた主イエスに栄光があるように。人々の信じない心が砕かれますように。

† ひた向きは習慣。
 私達の問題は良いことがわからないのではない。それを行い続ける事が出来ないことである。習慣化されていないことは、実を結ぶ結果がないことである。毎日会社に行く事は習慣である。それはその人の自然の行動となり結果として報酬という実を結ぶ。人間の脳の性質から、習慣化するためには最低二週間続ける事を進める人がいる。新しい習慣を創る事はたやすくない。だが、違和感を感じても、二週間続けると脳細胞が受け入れる。と言うのである。聖書通読でも、朝の祈りでも、聖句の暗章でも、二週間続けてみよう。するとあなたの脳細胞が続けられる能力を生みだしてくれるのである。なにごとも、初めの一歩が大切である。気持ち的に気乗りがしないようなとき、気持ちに逆らうことである。一歩を踏み出すと次々と歩み出せる。そうやって習慣化して行く事が出来る。「なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。」 箴22・13)私達は、都合の良い言い訳をすてて、良いことに、ひた向きに歩んで行こう。主イエスの御足の跡を見失わず、追い求めて歩もう。
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「直向(ひたむき)」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/3/22 1:00
 † 見えない物を畏れる。   
 ウイルスは目に見えない、だから恐ろしい。感染経路が分からないから更に恐ろしくなっている。世界は見えない物によって制せられるのではないか? それが疫病(ウイルス)と放射能(原子爆弾)かも知れない。聖書はいう「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」 マタイ10・28)世界中が見えない脅威である新型コロナウイルスにおびえているが、この機会に私達クリスチャンは改めて、見えないお方である主なる神の恐ろしさを覚えたい。すると、こうなる。「肉体を滅ぼすコロナウイルスなど恐れるな。魂も身体も地獄で滅ぼされる事実と、それを行われるまことの神を恐れよ」と。コロナウイルスに対して安易になる事ではない。最善の緊張感が日々に必要である。ただ、それ以上に、私達はキリスト者として日々に神を畏れ、礼拝し、栄光の主イエスをほめたたえて、御言葉に聞き従う者でありたいのだ。そして世界の人々のために祈りをささげたい。

 † 猛威に対して。
 新型コロナウイルスの世界的な大流行(パンデミック)は、なお猛威をふるい続ける様相である。何を差し置いても対応する薬がないのだから危機感が増す。ドイツのメルケル首相が言うように、第二次世界大戦依頼の世界的な協調が見られている。医療機関だけが関わるのではなく、世界の国を挙げて、一人一人の単位でウイルスに向き合い:ひた向きに対処している。世界は行き来して一つとなっていたが、今や行き来は遮断され「一つの命」を守る事に世界が全力を挙げている。やはり徹底して、ウイルスの感染を防ぐことが最優先されるべきなのだ。高齢者が体力、免疫力が低いので多くが犠牲者となっている。私もその一人なのだから、人々との接触には注意が必要である。私達の周りでは、しばらくの我慢をしてきたがウイルスの危機が身近にないことから、緊張を緩めつつあるように思う。もし、ひた向きに守るべき事をやめた時、ウイルスが入ってきたら取り返しが付かないことになる。しかし教会はしびれを切らして、礼拝を再開する可能性は否定できない。何を再開の根拠とするか?
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「直向(ひたむき)」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/3/15 1:00
 † 優先順位が要。   
 スポーツ選手の「ひた向きさ」は聖書にも出てくる。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」1コリ9・25)ここでは「あらゆる事について自制する」事がひたむきさを物語っている。ストイックという言葉が日常的に使われるようになってきたが、まさに「自分に厳しくして欲望抑えること、禁欲的であること」である。一流というスポーツ選手やファッションモデルの方々は、まさにそのようにして生きておられるのである。それは、自分が最優先している目標があるからである。だからひた向きになれるのである。使徒パウロは「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません」1コリ・27)という。決勝点が分かっているので、失格者にならないように「自分の身体を打ちたたいて従わせる」27節)と言っている。私達クリスチャンの決勝点は「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つ」ロマ14・10)に置かれている。この世ではありのまま生きる事も罪では無い。しかし、私達に最優先順位があるならば、ひた向きな生き方に変わる。ひた向きとは、最後まで続ける。という意味を内包していると思う。

† 結果が伴う。 
 不条理な世の中にあって、真実は必ず通じる。と信じて生きることは幸いだと思う。「一念天に通ず」という「必ずなしとげようというかたい決意のもとにたゆまず努力すれば、必ず天の知り聞き入れるところとなる」と言うものである。これは聖書と通じる所がある。未信者でイタリヤ隊の百人隊長コルネリオ(使徒10・22)は、その誠実な生き方のゆえに、主なる神の御心に適い、神からの幻を与えられる。そして使徒ペテロが主なる神に指名されて、コルリオの住まうカイザリヤに赴く。そして復活のイエスの福音が語られると、異邦人の上に聖霊が下ったのであった。私は思う、日本には多くの誠実で敬虔な良心を持って生きておられる方が多い。私達が彼らに尊敬を現して近づくなら、主イエスも愛の真実を持って臨まれると信じる。彼らの一念が、まことの神に通じるのだ。そうなれ !
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「直向(ひたむき)」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/3/8 1:30
 † 定まった心。   
 ひたむき、とは「真正面に向かう。まっすぐに向く。直面する。じかに向きあう」との意味だ。一回限りの人生に、大事な事はなにか?私は何かに心を定める生き方ではないかと思う。「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」詩57・7口語訳)まず、日本人は頼るべき神を尋ねて「あなたこそまことの神」と定めることが何よりも先決である。既にキリストを救い主としているならば、それだけで満足していては足りない。ダビデを見ればわかるように、特別に王となる油注ぎを受け、神を知っていた。けれども、神をもっと確実として「心を定めた」のである。これからの人生を主なる神に委ねて,ひたむきに生きる事を意味している。私達はどうだろうか?主なる神と真っ正面に向き合い、真理の啓示を与えられているだろうか?まず第一は、自分のために主イエスの御顔の光りに浴する必要がある。私達がダビデのようであるなら、多くの人を神に富ませる事が出来るだろう。

 † 素晴らしい証人。
 人生には季節があると、P・トゥルニエは「人生の四季」に宣べている。人がどの様な四季を生きるかは決められてはいない。樹木希林(俳優)さんの名言によれば「全ては成り行き」ともなる。導きとか、導かれるという聖書の言葉は、成り行きを含んでいる。しかし、最も大きく影響される出来事は、人との出会いである。同じキリストを信じる者でありながら、その人と出会ったがゆえに、魂の角度が上に向けられ、人生が一変して行く事が起こるのである。自分には見えていない自分が、友には見えている。そして、その友は私の可能性を予告(預言)して歩み出せという。まことに彼は私の人生を変えた恩人だと感謝している。出会いとは著書の中にもいる。また著者の思想や生き様がかけがえのない出会いでもある。私の四季は聖書とキリスト教世界に生きる数え切れない素晴らしい証人に育まれている。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです・・・・」ヘブル12・1 ハレルヤ!
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「うしろから前」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/3/1 1:00
 † 刻まれてきた今。   
 私はあるときまで過去を忌まわしいもの、即ち、心地よくないものとして省みたくなかった。それは環境に対して、時代に対しての不遇さに対する心の反応だった。今、現在を生きている人々の中に同じような感覚を持って生きている人もいるだろう。しかし、キリストに出会うまでの話である。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5・17)古いものが過ぎ去ると言うことは、古い忌まわしいとしか受け取れなかった事が新しくされることである。忌まわしいものが、輝かしいものになれば、過去も現在も新しい人生(命)になるのは当然である。しかし、今でも取り返しの付かない不出来な失敗を思い出すときがある。そのような未熟だった過去の自分を消し去りたい衝動に駆られる。その事で、キリストの憐れみと赦しを求める。それが無かったなら、私には生きた信仰はない。自分の罪や不出来さが十字架の血に潔められるだけではなく「十字架に死んでいる自分」を告白する。死んだなら、私に現れる命は、神の恵みと憐れみの他にはない。新しい命はキリストのものである。ハレルヤ!

 †  棄ててきたもの。
 人は成長とともに着ている服が替わって行く。世の中は進歩とともに機材が変わり、論理も変わってくる。古いものを愛(イト)おしむのはヨーロッパの文化だけではない。私達も新しい物を使ってはいるが、棄てきれないでいるものもある。最初に買ったカメラ(60年前)があり、24年前のワープロ(OASYS) 5インチFDのPC-9801 がある。実質として棄てたものがコレクションとなった。新しい本が山のように出版されるが、古い本は処分すべきであろうか?「ユダヤ処世術」M・トケイアー著)「貧しいときに売るのは金、宝石、家、土地。本は売ってはならない」「本は敵にも貸さなければならない。さもないと知識の敵となる」 棄ててきたものが多い中で「知性」を第一として來たユダヤ人のうように、私達もまた知性を増すため本を、本の中の本である聖書を読み(研究し)聖書に親しんで行こう。私達を無駄にさせている習慣こそ捨てるべきものだからである。
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