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牧師の想い

牧師の想い - 201912のエントリ

「知恵による収穫」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/12/29 1:00
 † 信仰生活が知恵。   
 生きてきた長さが長いほど知恵が伴っているはずである。多くを学び、多くを体験してきたからである。悲しいことは私達は知恵にふさわしい生き方が出来ない弱さを持っていることだ。「わかちゃーいるけど、やめられない」また、わかっていても自分の習慣に崩されてしまうことである。しかし、こういう体験を続ける事も、次に続く知恵なのである。最終的には主なる神の前に出て、罪として告白し悔い改める事である。こうして知恵ある生活が出来る。主イエスはそれを待っている。また、年若いときは未信者との付き合いも多く、彼らの娯楽に加わるなどして、楽しく面白いことが大きくなるときがある。このような誘惑の時に人生が狂いやすい。その時には心の深いところで語られる主の声を聞く事だ。クリスチャンの魂の奧には主が住んでおられて語られる。「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」ヨシュア1・7

 † 振り返って新年を迎える。
 自動車の急ハンドルは危険をもたらす。新年になって急激な変化をしょうとすると、かえってうまく行かないと思う。残された数日を振り返りの時として、一年を、今までを省みてみよう。新しい年を迎えるにあたって適切な方向に人生のハンドルを回すことができるだろう。まず霊的問題としての自分を吟味しょう。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」 2コリ13・5)次に、金銭について信仰的であったか顧みる必要がある。このところに人の本質が現れる。自分の第一に対してがわかるからである。「・・・・私たちの心をお調べになる神・・・・」1テサ2・4)に向かっての自己吟味が出来る人が成長できるのである。 これを棚に上げて信仰ぶっても、人には通用しても神には通用しないからである。これを省みれる人は素晴らしい年を迎えられる。
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「知恵による収穫」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/12/22 8:40
 † 先を読む知恵。   
 時代が変わる時とはいつなのか?それを待つことがあり、待たずして変えてゆく事がある。織田信長は三百年遅く生まれるべきだったと言われる。その時代とは天保の改革(1841)の年代であり、 オランダ国王からは開国勧告をうけフランス、英国、アメリカの艦船がやってくる時代である。1849年には漂流民の音吉(ジョン・M・マトソン)が通訳として英国の商船で日本に来たが艦船と間違えられ日本の砲撃を受けて帰還した。この音吉と宣教師チャールズ・ギュツラックによって最初の日本語聖書「ギュツラック訳聖書」がマカオで作られていた。1858年(安政5年)日仏修好通商条約が集結締結された。こういう時代に信長の知恵があったなら、日本の近代化は違った形になった。と言うわけである。信長が世界に類を見ないた改革者だったわけは伝統に固執せず、世界を目指していたことだと言われる。

 † 人生の柱を持つ事。
 聖書を読むばかりでなく大切なことは「信じ切る」ことである。大方の人は自分の領域(知性や感覚)で神を査定し、信仰を査定している。要するに自分の土俵の中に入れようとしている。賢く見えて外れた知恵である。神の土俵の中に飛び込む「神を信じ切る」と言う冒険がないならば、神に導かれる幸い、即ち、神に支配される幸いが体験されないと思う。私には人生を支える三つの御言葉がある。一つは詩篇37・5「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」・・・・信仰生活の初めから、自分の未熟な判断や決断に頼らず、時間(期間)を主イエスに委ねて、主が成し遂げられる事を待ち望み、信頼し続けるのである。これは私にとって神からの知恵である。主イエスが私にそうするように促された。それは御言葉の通りであるし、私の性格に最も見合ったものである。信じ切る(主に委ねる)とは、神の土俵から飛び出さないと言う事である。私にはなんでも出来る自由があるが、最大の自由は、主なる神の可能性の土俵の中に、留まることを選ぶ自由である。
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「知恵による収穫」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/12/15 1:00
 † 矢筒の矢が多い。   
 「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」詩127・5)矢はするどい武器だ。前節では、それは子供であり若者である。教会を矢筒とみれば、そこに生みだされた子供達と若者である。教会がサタンと対峙して勝ち得るためには、このように若者が満ちる必要がある。もう一つの意味は「主の霊」の力である。「・・・・『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」ゼカリヤ4・6)私達が、ではなく、主イエスが私達の内に力ある業を行われるのである。主イエスは私達の内に、金、銀、宝石を生みだされる。人間的な力で行う宗教的なものは、結局肉を生みだすしかない。教会に若者を満たしたいならば、主なる神の御力を100バーセント信じ疑わない信仰が霊的子供を生む知恵である。矢筒に矢を満たす教会でありたい。

 † 起死回生の知恵。
 白井博隆さんは世界一厳しい有機栽培認証「IFOAM(国際有機運動連盟)」をドイツの本部で2006年収得された。その野菜「田七人参(でんひちにんじん)」はサポニンが朝鮮人参の7倍と豊富である。中国の雲南省の高地2000メートルの硯山県(げんざんけん)で、未開地を開拓した。当時は農薬漬けで栽培されていた田七人参の無農薬栽培を初めて成功させ、次に有機栽培で最高級品質の田七人参栽培で成功させた。白井さんは中国人との合弁会社によって始められたが、幾度かの裏切り行為でついに経営的な破綻に直面したと言われる。中国人は日本から金を出せ、それ以外にない。という中で「僕ももう、お金ありません。解散したくないけど、なんとかなりませんかね?」の一点張りで一時間くらいやりとりをした。業を煮やした先方の理事長がついに「なんとかしょうか。・・・こんな貧乏な日本人から金を取ったら、俺たち中国人が情けない」と言った。白井さんは言う「諦めなければ、繋がる事もある」と、白井さんは給料無しの社長になって、中国人の若い社員を引き上げた。社内の雰囲気も変わり回復に向かったのであった。「諦めない」白井さんの知恵が成し得たことである。
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「知恵による収穫」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/12/8 7:50
 † 先々のため。   
 知恵は未来のために、いま生かされるものである。そうすることで確実に未来が築かれて行く。キリストを信じるということは、神の御言葉を生きることになり、知恵を得て生きていることと同じなのである。罪から遠ざかり、神の義を生きることほど優れた知恵はない。たとえば怒りを制するという知恵は、破壊的な事態を回避できるばかりか人格的な品格を獲得することになる。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」箴言16・32)人(隣人)を裁かないということも偉大な知恵である。親しい身近な人の間でも、軽々しく人を裁かないことが、未来を切り開くのである。 反対に人の前で隣人を裁くと、裁いたことが山彦のように自分に帰ってくるのである。まさに知恵のない行為というものがあるのだ。私達は、愛というテーマを神から与えられて生きるものである。主なる神が聖にして義であるということは、厳かにして恐るべき方を表す。しかし、今や愛となられて憐れみを知恵とされたのである。憐れみを知恵として生きる人は幸いである。

 † 生みだされる知恵。
どうしたらよいのか?途方に暮れる時が誰にもある。販売成績が思わしくなく下降気味に推移しているならば、企業にとっては死活問題である。起死回生となるような知恵(方法)が必要となる。短期、中期、長期にわたる戦略が練られることになる。最近のことだが教会で大掃除が実施された。外回りで気になっていた壁付きの外灯の一基が点灯しなくなっていた。調べると電源端子を支える金属が腐食して錆と化してしまっていた。最低限度可能性を見いだすことができたのはプラスチックの部品が使えることだった。私の見つけた可能性は、鉄板を見つけ金具を手作りすることだった。グラインダーとドリルとハンマーで部品を作りブラスチックを取り付け、電源端子を入れて成功した。出来る可能性と道具を使う知恵が廃棄物を活きたものにしだのである。知恵は用いれば用いるほど磨きがかかる。思考する能力がまし加わることも、なんとかなることもわかってくるのである。
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「知恵による収穫」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/12/1 1:00
  † 働かせる知恵。   
 知識というものは勉強を通して専門的な尖端まで至るものである。あらゆる分野に研究者がいて、これらの方々があらゆる知識を駆使して新薬や新機能の製品を開発する。既成の知識を具体的な方法や能力にする。また製品化にするのである。山中伸弥教授を初め知恵を働かせる人がいて幹細胞による再生医療がこの日本で生まれたのである。知恵の最たる分野は私達の人生に関わる。知恵[ギ] プロネーシス。「道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力」である。私達が手にする聖書はどの時代に生きる人間にも、ぶれることのない人生の筋道を示し、歩む力を与えてくれるのである。しかし、神を畏れることのない所では知恵に欠けた歩みがあり、痛みのある人生が見られるのである。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。・・・・」ヤコブ1・5

 † 落ち着いて静まれ。
 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」詩46・10口語訳)静まることのない人とは。神の前に座すること無く、神を通り過ぎて慌ただしく生きている人である。要するに自分に頼り、自分の経験を知恵にして生きるのである。世間的な知恵がその人の中心だから、その生活には、主なる神の恵みが知恵とならない。言葉を代えるならば、聖書に関する事や神に関する事、信仰に関する事が知識にとどまり、具体的な知恵である能力や判断力とならないのである。この現実を悔い改め、神の御前に座して静まり「キリストは神の力、神の知恵・・・・」1コリ1・24)として、心の王座に迎える事が大切である。私達の人生に神の恵みと慈しみが湧き上がってくるのである。真の知恵は、神を畏れる人に伴うからである。私達は自分を賢いと思いやすいが、主なる神によるものであると、へりくだることが知恵であり賢さなのである。
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