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牧師の想い

牧師の想い - 201903のエントリ

「立たされている」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/3/17 1:00
† 完全な立位置とは。
  ここで言う立位置とは相対的などちらに立っても同じというようなものではない。アブラハムが神に命じられた「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創22・2)この場面で、捧げるか捧げないか、どちらでも良いよ。とは言われていない。ここまでに至るアブラハムと主なる神の世界において、忘れてはならないことがある。それは不可能を可能にされる全能の神をアブラハムは痛いほどに体験し認識しているという事だ。その上での試みであると言う事である。例えば羊百頭を全焼にせよ。と言うのと、独り子イサクを全焼にせよ。では違いがある。しかし、主なる神が求めているのは、私が全能の神であることを信じるか?と言う事である。アブラハムには情愛の問題が倫理的な問題が直ぐに襲ってきたことだろう。しかしアブラハムは神を体験した確かさにおいて、躊躇することなく朝早くモリヤの山にイサクを連れて出立した。私達に言える事は神を体験し「識った」ならば、それにふさわしい行動をすること。それが「立たされている」所であると言えるだろう。  

† 楽しくあるべき人生。
  楽しくない毎日を何年も過ごした事があるだろうか? 私の人生の中に修業時代があった。それは徒弟制度であって「有無(ウム)を言わせず」と言う世界。物事を強要されるだけの世界の中に、少なくても三年以上は続いた。山本有三著「路傍の石」の世界だった。今になって思えることは、その事によって得たことが、いま「立たされている」事に深く繋がっている。悲しみの土壌から夢や希望がわかり、楽しさは与えられる恵みだと悟った。楽しくあることを当たり前としているとしたら、これから遭遇する苦しみや悲しみに大きな痛手を受けるだろう。聖書で、畑に宝を見つける記事(マタイ13章)がある。ユダヤ人は襲われると強盗に金銀を与えて生き延びる道を選んだ。丸裸になるので、畑に必要な宝を隠したのである。初代のクリスチャンは迫害の中で略奪され、家を焼かれ追放された。けれども、この世のものを失う事に未練を持たず、神の都を思って、信仰によりこの世の旅路を当たり前のように歩んだのである。私達が何のために立たされているかを、深く考えさせられる。
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「立たされている」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/3/10 1:00
† 死の前に立つには。
  元気であると言うことは、今日までの元気を同じように生き続けることのためである。しかし、それだけではないことに気付かされる。元気であると言う事は、元気でなくなる時があると言う事だ。突然の身体の異変で死に直面せざるを得なくなることもある。妹のことだが経過検診で病院で見てもらったら、なんと緊急入院を言い渡された。突然死の可能性があるという「肺塞栓症」で集中治療室に入れられた。幸い経過が良く直ぐに一般病棟に移ることが出来た。60歳の若さで病と闘いつつ主に召された兄弟の葬儀を執り行った。生きているという事は、元気であるとか病気であるとか、普通であるとか「とどのつまり」死の前に立たされているのである。人は死の問題を先延ばしして考えないように生きているのではないか? 自分の人生の季節を様々に麗しく振る舞っても「トド(ボラの最終名)のつまり」は死なのだから、唯一、死を克服できる十字架と復活のキリストを人生の基礎にすべきである。それ以外の基礎は、やってくる死に押し流されてしまうからである。

† 信仰は勝利。
  聖歌514番「ひかりの高地に」の折り返しに歌われる「信仰は勝利、信仰は勝利、信仰持てよと悪魔に勝たん」まさに信仰に立たされている事を喜ぶ。悪魔は100%神を知っていても「神を信じる」信仰を持たないのである。私達は信仰に立つがゆえに、この悪魔に勝つことが出来るのである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11・6)人生に十分というものがあるだろうか?世界を支配するほどの資産とその権力を持つ事だろうか?そういう人が何人かおられるそうである。「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」マタイ13・12)これは法則なので世界はそうなっている。しかし私は余り関心がない「神に喜ばれ神の報いをうける」以上の幸福はないと思うからだ。また、それ以外を知りたくもない。信仰は人生の勝利だから、ますます喜んで信仰に立って歩みたい。  
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「立たされている」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/3/3 1:00
† 裁きに立ち尽くせる。
  自分の救いの確証を御言葉に置く事は正しい。御言葉に頼る以外に確信は持てないからである。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」ロマ10・10)また「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」1ヨハネ1・9)このほかに救いの約束の御言葉は多い。このような約束に従って安心して居れるのは事実である。では、それだけであとは問題がないのか?それが大切な問である。救いを信じて30年、50年それ以上の信仰生活を送るのが当たり前の「人生100歳時代」となる。長い信仰生活のために聖書の読みを深める必要がある。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」マタイ5・20)また「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2・13)十字架の義に救われた私達に必要なのは「裁きに立ち尽くせる」主の愛と義の実践生活に目を向けるべきだと思う。

† 信者の時代認識。
  社会歴史上の今日この時は、6000万人が死んだ世界大戦争のあとの「ポストモダン」(進歩主義や主体性を重んじる近代主義や啓蒙主義を批判し、そこから脱却しようとする思想運動)の時代である。・・・・人間の叡智が神に代わって平和と繁栄を創りだせるという理想は、木っ端みじんに吹き飛んだ。そして今人類はまたもや同じ過ちに向かいつつある。「ボストモダン」の危険性は、宗教や霊的な事がらに関して特に、客観的あるいは絶対的な真理を全く認めないことである。神の真理に回帰すべき所をあえて拒むのである。その世界的な風潮は大人の世界のみならず子供の世界にも入り込んでいている。快楽至上の人間主義、隣人を顧みない保護的な個人主義が無意識のうちに「考え・思い」という霊性となっている。自分を最優先する、それが国家となり、世界との関わり方となってきた。しかし、主なる神の現実は世界の完成に向かっている。聖書の約束(預言)がこの世界の完結に急接近している。今この時、世界が起こす事件(出来事)は、神の思うままに動いて行くのである。私達は神のご計画の進捗の中に立って世界を知り、その時を認識出来るのである。  
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