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牧師の想い

牧師の想い - 201811のエントリ

「人の立つ位置」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/25 1:00
† 頼るべきか頼らざるべきか?
  先日フランス映画を見た。実在した女性の尊厳死を扱ったもので、とても良く撮られていた。息子と娘のそれぞれの葛藤が中心になっている。人間は老衰するという事と自分で自分を見切れなくなると言う事が現実なのである。いつしか紙おむつをしなければならない時が来て、一人で風呂に浸かることが出来なくなる。日本人も百才まで生きる時代が到来している事を考えると老後は真面目な問題である。聖書をみるとアブラハム、イサク、ヤコブは苦労は多いものの長寿をまっとうし平安の中に天に召されている。しかし、その背後には家族や一族が支えている。イサクは目がかすんで見えない状態であった。現代では認知症やさまざまな病が伴う事が多い。しかし、どんな事があってもクリスチャンは尊厳死(自殺)を求めてはいけない。主なる神に感謝しキリストを喜びとし聖霊によって御言葉の中に生きる事である。私達の頼るべきは、主なる神を信頼する生き方だと確信する。

† 隠し通せる?
  「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8・17)人間の世界では隠しとおせるものが多く在るに違いない。自分の代わりに誰かが間違って犯人にされ刑務所に行く事も、自分のごまかしが誰にも気づかれずに葬られたことも、怠けたことも、手抜きしたことも誰にも気付かれることもなく終わってきた。そうゆう生き方を賢い生き方だと言う人もいる。しかしこの世の正義も働いている、冤罪の再審、構造計算の偽装、企業の粉飾決算、品質の偽装計算、税制上のごまかし等に摘発が起こっている。このような闇の世界にキリストが世の光りとして来られたのである。光りは暗闇の業を明るみに引き出す。まず私達の品性を照らされる、次に金銭(持ち物)の管理を照らされる。キリストの花嫁としての基準があるからだ。主なる神に隠しとおせるものなどない。光りの子は光りの中にいることを喜ぶ、主なる神に知られることを喜ぶ、これが私達である。光りの子どもとしての位置となる。
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「人の立つ位置」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/18 8:40
† 驚き感動する。
  生きて行くという事は、驚きを発見し感動することである。私達人間はさまざまな事柄に驚かされて目が開かれて行く動物である。驚くこともなくなったら成長は終わったのである。感動することもなくなったら生気を失っているのである。「真理とは驚きである」と、偉大な神学者や神の人達は一様にことばに出している。それほどに聖書の神は真理を掲示して私達を驚かせる。それは人生の感動となり失われることがない。偉大な学位がある神学者、牧師であっても、その人生に真理の驚きが希薄で感動も少ないなら、その言葉も溢れでる生命も漲(ミナギ)る力を持たないのである。この感動や驚きが与えられるのは、私達の誠実な探究に対して、祈り求める事に対しての神の啓示であり答なのである。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)主なる神は、この後も私達を驚かせてくださり感動を与え続けられるのである。

† 生きる道と生命を選ぶ?
  生命は幾つあるのか? 言うまでも無く一つである。しかし、人の生きる道はさまざまで幾万幾億とあるわけである。そうなると生命もそれに伴っている様な錯覚をする。自然の成り行きで生きるにしても、自分で望んで生きるにしても、生きて行く道は人間が造り出して行けるのである。しかし生命(魂)は別物である。私達の生命(魂)は神の創造物であり神に帰するのだ。人間の生命は神の指示に伴って在るのだ。「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」 エペソ1・4-5)これは聖書の独善ではない。主イエスがこの世に来られ十字架に死なれ墓から復活をされたことによって、私達の生命が神の子たる身分を授かるのである。それが人間万民の生命の立ち位置なのである。
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「人の立つ位置」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/11 1:00
† 清さの道に立つ。
  清い心を持って立つとはどう言うことか? ある時まではとても清らかな心を持って過ごしていた。しかし、ある時からそうではなくなった。そういう経過を持っている人は少なくない。清い心で立ち続けると多くの悲しみを耐えなくてはならない。何故ならば、悪辣横柄な手段を用いる者達に先んじられ、馬鹿にされ、奪われたりするからである。その苦しみと、堪え難き悔しさは、純真である事を止める引き金にもなる。「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」詩73・13-14)3節には「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」とある。神を恐れて純粋であろうとする心は揺さぶられるのだ。損くじを引いている「愚か者」とさえ思われる。しかし、次のようになる。「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる」詩73・17-18)神を恐れる清い心が勝利者の立位置なのである。

† 何をしても栄える人。
  そうなりたいならば、至極簡単である。二つのことを行えば良い。一つは「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」詩1・1)二つ目は「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 詩1・2)である。重要な事は、これは掌(テノヒラ)の両面の関係である事だ。一方だけでは、あくまでも半分でしかない。「・・・・に歩まず。・・・・に立たず。・・・・に着かない。」を徹底することである。その決意を実行する事である。これが曖昧なら、二つ目の「・・・・主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 を実行しても、「何をしても栄える人」とはならない。いかに聖書を知り尽くしても、主への奉仕が出来ていても、心と口唇をしっかり引き締めて管理しないと潤いのない木のように実を結べない。ならば何をしても栄える人の道に立とう。
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「人の立つ位置」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/4 1:00
† 信仰に立ちつくす。
  「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12)この前後節を読むと、世の終わりに臨んでいる危機がある。私達の現在の背景でもある。信仰とは「立っている」か「倒れているか」のどちらかでもある。だから「立っていると思うもの」といわれている。どの教会でも、今礼拝を守っている人数の2倍から4倍の受洗者はおられるのである。40年も前のことだが、明治時代から続く大阪の著名なメソジスト教会を訪問した時、気さくな牧師先生が話し掛けられた。「過去からの会員名簿が一万人もあって整理しょうと思うよ」と。先祖代々信仰を継承している家系もあるだろうけれど、消息不明者がほとんどなのである。韓国では大教会に集う人がなぜおおいのか?韓国のクリスチャンが教えてくれた。大教会に行けば深い関わりを持たないでも良いからで、干渉されないことを願っているからだ。と、出入り自由でいつ教会を去っても気づかれない。果たして私達はそういう立位置をどこかで求めているのだろうか?

† 私の中身。
  パスカルは「パンセ」の中で「人間は一本の葦(アシ)にすぎず自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である」と言った。聖書と共に読み続けた懐かしさを思い出す。現在の若者が、その存在すら知らない事には驚きでもある。数学者にして自然哲学者、物理学者、思想家、キリスト教神学者であるパスカルは人間を探究したのだ。パンセに通じれば自分を探究したことにもなる。私達人間は、人間を長く生きてきているのに本当には人間を知らない。それは自分を知らないことである。もう一つの問題はこのように「自分を知らない」まま、福音を信じているので、神の誡めと自分自身が衝突するということである。それは罪深いからとか、性格と気質の問題とかに置き換えられ、霊的に解釈される。それは間違いではないが、福音に精通することは、自分に精通することと相まって成長し完成して行くのである。聖霊の注ぎは、自分を知って神を求める人に近くあると思う。
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