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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「新しい世界を創る」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/1/17 1:00
 † 誰もが発明家。
 小学生の時に考えた。発明する人になりたいと、さっそくノートに、何を発明するかを書こうとしたが、なにも思い浮かばなかった。私は、東京の空襲前に、岐阜県益田郡中原村疎開していた。昭和22年頃(1947年)この村には蓄音機がなく、私の家にはあったので、学校の運動会や催しには役員の方が借りにこられた。村には、まだ普及していないラジオを、父親は組み立てて要望に答えていた。父親はそういう技術を持っていたので、興味津々(シンシン)と見ていたのである。創るということは必要に応じるものだと思う。「必要は発明の母」と言われるように、必要がないところに創造はないだろう。さて、聖書を手にする私達には、測り知れない可能性(必要)が広がっている。ルターは「義人は信仰によって生きる」ハバクク2・4)の聖句から、信仰を世界的に回復させた。私達でも,私に必要な真理を尋ね求める時、主なる神はあなただけに創りだせる、奥深い神の真実を持たせるのである。霊的,信仰的な必要を持つ者こそ、生きた信仰を創り出し、持つ者になるのである。

† 予測して創り出す。
 昨年から一年を経て、さらなる感染拡大をしている新型コロナウイルスだが、このような感染を予測して、体制を創り出していた国と、そうではない未対応国とでは、大きな違いが生じた。日本などは、福祉・医療にかかる大きな経費を削減するために、公衆衛生の拠点である保健所を削除、中規模病院の統廃合を進め、医師の増員を抑制してきた。感染症には全く未対応だった。大国アメリカもそうである。それとは違い台湾、韓国、ドイツは平時から感染症への対応を怠らず創りがしていた。まさに人命よりも、経済優先的な体質が、コロナ感染の猛威によってあからさまになったのである。この世界は本気で戦争をしょうと思わない。軍事力増強が平和をつくりだすのか疑問だ。使いもしない最新兵器に、膨大な予算を使い果たしているのは正論か?この度のコロナ感染を通して「不要不急」のものが見えてきた。この後も同じく感染症と闘う事になる。予測すべきは「人間の安全保証」への道である。私達クリスチャンは叫ぶ、第一は、命に関わること。命とは、人の存在を第一にする事だ。
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「新しい世界を創る」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/1/10 1:00
 † つくる楽しみ。
  つくる(創る、創る、作る)ことは人間の生活になくてはならない。湯を沸かすことも湯を作ることであり、朝食を整えることも食事を作ることである。教室で教えることも、生徒のに新しい知識を創っていることに間違いない。こうしてみると、全ての人がなにかをつくっているのである。文章を書くのも、物事を明らかにしたり、記録や理論を創り出しているのである。見える形にするという造形的な創造もある。同じ物を造る作業もある。あるいは未踏の高山に新しい登坂路を作ることもそうである。それぞれに、つくられているものが、すべて新しい世界を創り出すことに繋がっている。かって、ソロモンによって神殿が作られた時、様々な分野に数多(アマタ)の人々が係わり建設作業が行われた。教会もそうである、エクレシア(呼びだされた人々)が祭司として役割を担い、その働きをすることによって、神の愛の業が現れる。このように、神の国は一人一人によって創られ建設される。世の中では多くの人が、死の恐れと、罪に縛られている。私達一人一人が一致を守り、神の国の力強さを創り出そう。私達は滅び行く何人かを救い出す事が出来る。

† 愛称「RGB」
 ルース・ベイダー・ギンズバーグ連邦最高裁判所判事は「RGB」 で知られ85才現役で2020年9月逝去された。アメリカは民主的な国のイメーが強いが、実は男尊女卑の著しい国であった。その性差別の不平等に立ち向かい、法律の制定に貢献したのが、ギンズバーグ判事だった。その数々の功績はアメリカ史の教科書に今後書かれることになる。考えさせられたことは、法には、いかなる権力も、勢力も従わなければならない。という根本である。法の下にあることが人権の擁護である。新法を制定するには、大きな見えざる勢力との戦いがあった。それを戦い抜いた婦人判事キンズバーグ女史だった。新しい世界を創るには、強靱な精神(信仰)が必要である。私達は自分に宣言しなければならない「私の隣人が地獄に行ってはならない」と。主イエスの願われることに、心を合わせてのことだ。そして、そこから離れないで祈り続けるならば、主イエスが、あなたにオーバーラップされ、力強い信仰を現す者になれるのである。
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「新しい世界を創る」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/1/3 1:00
 † 自らに誓う。
  今年の始まりに自らに誓うことが必要だと思う。新約聖書の時代には、やたらに神に誓うという習慣があったので、誓いの真実性が意味のないものになっていたと、W・バークレーは述べている。主イエスは全面的に誓うことの禁止を述べられている。『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』マタイ5・33)神を信じるという民が、誓ったことを主に果たさないことが平気になってしまった背景があるからだ。「はい。は『はい』いいえ。は『いいえ』とだけ言いなさい。・・・・」マタイ5・37)と言うことに、留められた。昔の聖徒は、神を恐れることを知っており、誓いを果たしていたのである。生ける神との関係が、自分に重点を置いた関係である限り、誓いは危ういものになる。ならば、この新年に当たり自分に誓うことは出来る。それを、主イエスに見守りを願い、導きを願うことは出来る。自分に誓えない一年は、張り合いがないものになる。また、成長の目標もないことには、寂しいと思う。

† 熱心になれる信仰。
 私達は好きなこと、得意なことには熱心になれる。それを人間関係に繋げて、交わりを創り出そう。未信者が救われるのは関係を通してである。教会の外での活動が、祭司である信徒の大きな特権である。私達は宣教の動力を主イエスに負っている。今年期待されていることは、主イエスの偉大さに驚き、主イエスを慕う者になることである。それ以上に人生の幸いはないからだ。そのように感じていない人も、そこに到達しないと、信仰の意味も教会も高揚する事はない。私達が召され選ばれたのは、主イエスが私達の全ての全てとなり、主イエスを心から愛する者となり、聖霊に導かれる事を求める者となる事だ。私達は主イエスに有る限り熱心になれる。私達が奮い立たねばならないのは、この真理に対しての「宣言」である。即ち、「主イエスこそは、私の全ての全てである」と、それは世の栄華に惑わないためである。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」 ロマ15・13)確かな喜びと平和と聖霊の力が、私達を溢れさせて下さるからである。
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「新しい世界を創る」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/12/27 1:00
 † 始める事。
 94才の婦人写真家の話だ。息子の主催する写真教室に70才ころに参加したそうである。息子さんの指導もあって、手の込んだユニークな写真が世間の評判になった。全国に何万というファンが毎回掲載される写真画像を楽しみに見ておられるという。これは趣味の世界かも知れないが、多くの仲間を創り出されていることに意味があると思う。年と共に人間関係も乏しくなるし、共通の話題性もしぼんでくる。人間らしさとして創造的に生きる事は、どんな立場の人にとっても大事なのである。自分の世界を広めるために、得意分野でなにかをはじめてみたらどうであろう。運動分野の散歩、軽いジョギングなど、それらのサークルなどに参加することも、あたらしい世界を創り出してゆくことになるだろう。もちろん私達は神に向かっての創造的生活を求める。あたらしい世界を創るためには、新年からのチャレンジ(誓願)を表明することである。目標(この事)を、○○迄に、祈りを伴って(この方法)を実行します。という達成度を測れる内容が優れている。80/20の法則がある。80を願って20%が達成されれば成功である。

† 可能性を見いだす。
 毎年、即ち今日まで何十年とクリスマスを迎え、新しい年に目標や指針を立ててきた。十分な達成度はなくても、それによって今日の教会はある。教会は年々にビジョンが立てられる。ある意味で新鮮な出発を感じさせる。それと同時に、教会は不動の揺るぎない使信を持っている。1)キリストの身体の成熟する事。2)信仰のない人々への証詞(宣教)である。このたゆまない努力(忠実である事)が、教会の内容となるのである。神の切なる願いが、私達の教会(身体)を通してあふれ出ていることが、生きている事を現すのである。そのために一人一人が用いられる。そのために新しい世界を創り、人々との関係を生みだして行くことなのだ。この思いは聖霊によるのであり、神を愛している事を証明する事になる。身近な所に可能性は広がっているはずだ。2021年を始めるに当たって、あなたに出来る多くの可能性を発見して欲しい。その可能性を互いに分かち合えば、千人はおろか、万人を追い求める教会にもなるのである。
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「目ざすものがある」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/12/20 1:00
 † 私達が祭司である事。
 日本人が「祭司」という言葉を聞くと、神社の神官や祭りの行列に見られる烏帽子(エボシ)をかぶった人達を思い浮かべる。しかし、私達は違った意味で祭司について理解するに到ったのである。主イエスを信じた時、私達はプロテスタント教会に属することを知る。信じた者は全て祭司(万民祭司)であることが基本となっているということを教えられる。祭司とは名の通り、神に仕える人のことである。私達のビンヤード教会では、牧師がしている事は、信徒(祭司)にもできと公言されている。祭司としての信徒は教会の様々なミニストリー(奉仕)に携われる。さらに大きな目的は、教会外の未信者の中での祭司の務めが委ねられている。牧師や教会の献身者は、信徒(祭司)である一人一人の建て上げに力を注ぎ、聖霊と御言葉の交わり(教会)に主力を注ぐことを求められている。一方、信徒は、それぞれの地域に祭司として遣わされ、その地域の人々の救いを祈る務めを持つ。祭司の自覚(信仰)を持って、活動を勧めるならば、神の国は私達の地域を覆い、主なる神のお働きは拡大するのである。

 † 闇の力に負けない。
 キリストが世に来られた目的は明確である。罪と死に制せられている人々を救い出すことである。「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました」使徒10・38)信仰の目ざすもの、教会の目ざす戦いの相手は明確である。主イエスを神と告白しない、この世の栄華であり権力と支配である。主イエスを救い主と告白しない、哲学や思想である。また、偽キリストと呼ばれる羊の皮を被った狼である。私達は霊において、魂の深みにおいて研ぎ澄まされており、彼らの放つ魅惑的な力に立ち向かう信仰を持っている。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」 ヤコブ4・7)悪魔は朽ちる物しか持っていない。私達こそ、朽ちない宝(永遠の生命)を持っている。悪魔は私達の宝を奪いに来るが、神に従い立ち向かって行けば、悪魔は逃げ去る以外にないのである。
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