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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「偉大な価値を現す」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/9/20 8:30
 † 稀少すぎるのか?
 ダイヤモンドが路傍の石ころのように雑多にあるものなら、値打ちがないものとなり、コンクリートの材料ともなろう。では、私達の救いの福音が、全世界どこにでも、自明のものとなり人々に行き渡っているならば、値打ちがなくなるのか? 決してそうはならない。私達は絶大な価値の真価を知っているからだ。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。・・・・」ピリピ3・8口語訳)この絶大な価値が、私達の同胞に全く知られていないのである。福音がなぜ絶大な価値なのかを現すことに、私達が非力である事は事実である。これには聖霊の注ぎ(聖霊のバプテスマ)で「燃やされ」て力を得て行こう。第二は、世界第三位の経済大国、日本人の真の霊的貧しさを、私達の霊的豊かさで示さなければならない。これらのことを切に祈る者になろう。

 † 教会の遠心力。
 ある時、巨大なフラフープ(直径6メーメル)を回す人を見た。ギネスものだという。中心で回す力と、遠心力に耐える力が同時に働いている。体幹が強くなければできないわけである。絶大な価値(福音)は教会の力の基なる体幹である。教会は「キリストを頭とする兄弟姉妹の愛による交わり」である。即ち「絶大な価値」に結びつけられている人々のわけである。そこに生みだされる遠心力とは、宣教の環である。台風は中心に向かうが、教会は中心から外側(世界)に向かう遠心力である。教会の遠心力は兄弟姉妹の信仰の一致で決まってくる。「・・・・どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか」申命32・30)二人は一人の10倍の力を持つ事が神の法則である。私達が互いに「絶大な価値」で結ばれているならば、教会の宣教力(遠心力)は強くなる。果たして「絶大な価値」に、引き出されている兄弟姉妹がいるか? キリストの絶大な価値に結び合わされた兄弟姉妹達の一致の祈りと同じ志が、私達の教会の体幹であり、宣教の大きな遠心力である。体幹力となり得る二人、三人を見いだせ、キリストを絶大な価値として生きている人である。
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「流れの初めと途上」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/9/13 1:10
† 終わりのない途上。
 イースターの日には、召天者記念礼拝を行っていたが、コロナ感染回避のため、この9月13日を召天者記念礼拝とした。私の人生の初まりは、この世に生まれた時だと思っていたが間違いだった。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)驚くべき主なる神の、ご配慮の中に選ばれていた。それが私の始め(源流)である。小さな自分を見つめると、あり得ないと思うが、主なる神の叡智(エイチ)と憐れみの中では、その恵みと慈しみを信じる事が出来るのである。まさに主イエスに出会い、そのようにこの世に活かされてきたのである。人間とは「この世にまだ居るか」「この世を去ったか」の、二つしかない。地上での可視的な人生は短いが、主と共に生きる天での命は、輝かしい至福と歓喜の永遠の命である。キリストにあって世を去ることは、主なる神の与えた人間の目的である。惜しみなく、この世を去れる信仰の勝利を共有したい。

† 神は生きておられる。
 私達の神は、天地の創造者で、私達をご自身に似せて形づくられた方である。私達に大切なのは、名目的な言葉を信じると共に、主なる神は、私達には生ける神である。なんでも出来ない事がない神である(マルコ10・27)という、生きておられる神に実存することである。どんな境遇にあっても、どんな逆境に見舞われても、神の愛と神の力を心深く信じている事なのである。私達は変化して行く、世界も変化し、家族も成長し変化してゆく。この世では、何が起こるかわからない。それがどうであれ大事なのは、生きておられる神の力と、神の愛の中に居つづける事なのである。神は御言葉の如く生きておられるのであり、力ある神として私達に関わられる。主なる神は、ご自身の栄光のために、私達と関わられることを忘れてはならない。自己本位な生き方していると、主なる神は私達と関わることが お出来にならない。神は生きておられる。それが天地万物の源流(初め)であり、私の源流である。生ける神が何事であれ最初におかれることである。そして「私達は神の中に生き、動き、また存在しているのです」使17・28)信仰の途上を全うしようではないか。
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「流れの初めと途上」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/9/6 1:00
† 出でて帰る所。
 どこからきましたか?と尋ねられるなら、すぐに故郷を思い起こして答えると思う。都会の生まれを「江戸っ子だってねー」と尋ねられ「神田の生まれよ」と気っ風よく答える人もいるだろう。確かに私達は生れ故郷を懐かしみ大事にしている。聖書は問う、あなたはどこから来ましたか? 誇り高いイスラエル民族の人々に、主なる神は言われた「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました」申命記26・58(共同訳 )イスラエル民族の出でたる所は、滅びゆく一アラム人(アブラハム)を選ばれた、主なる神に全てがある。では、あなたと私はどこに行きますか?私達全ての者が「唱えられること」は、神によって造られた人間(霊)は「これを与えた神に帰る」伝道12・7)私達は、主イエスの贖いの御業を通して、この事実の完全な認識を与えられる。ハレルヤ!

† 危機的な途上。
 いま、伊勢湾台風以上の巨大な台風が、日本上陸を狙うかのごとく北上しているという。台風の消滅するまでの途上が、破壊の連続である。瞬間風速80メートルは、時速288㎞との事。この風に耐えうる構造物は相当な物である。伊勢湾台風の恐ろしさを体験しているので身の毛がよだつ。同じように世界には別の台風がある。一人の人間が、体制と権力を構築し世界に向かって、臆することなく人間性を踏みにじる抑圧的指導者のことで、世界に勃発(ボッパツ)している。ある意味で、誰の言う事も聞かない横暴さは台風と同じである。台風は破壊的だが、いずれ消滅する、その活動期間は短い。しかし、横暴な人間台風は止むことが無い。ただ、主なる神の御手が働くことを信じる事と、国々の指導者達が知恵を持って協力し対策を築けば、横暴さを食い止めて行くことができるだろう。暗闇の力が背後にあって非常に狡猾である事が特徴である。台風の進路(途上)の破壊力からは、第一に命を守ることである。・・・世界を折檻(セッカン)しょうとする、横暴な権力の人間台風には、主なる神が立ち向かわれるよう、私達が祈るべきなのである。
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「流れの初めと途上」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/30 8:00
† 溝を掘ること。
 私達の快適な生活を支えてくれているのは、普段あまり気にもしない下水道の整備ではないかと思う。上水道はいち早く整備されたが、下水道は大きな設備を要し、工事も大がかりで財源がかかる。1976年3月、可児市(当時可児町)に開拓伝道に入り、現在の新会堂が建つ前年(2003年)に、下水道が埋設された新道路が、建設用地の前に造られた。市会議員に尋ねると、「ここは下水道は通りません」と聞いていたので、奇跡が起きたと感じた。可児市に来て28年間、下水道の恵みには預かり知らなかったが、大きな溝が掘られるのを特別な思いで眺めた記憶がある。「彼は次のように言った。主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む』2列318-19) さて、私達はどの様な溝を掘るべきかを、主イエスに尋ねたい。風も大雨も見ないのに、主なる神が生命の水を溢れさせてくださる。その御心とされる所を掘りたい。私達は、異なる所を掘っているかも知れないからだ。

† 霊的生命の源流。
 流れは、川に付随して想像しやすい。流れは気流でもあり、それは風として流れている。それと、私達の日々の霊的生命のために流されている物がある。旧約聖書では、それは最上のオリーブの燈油である。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝・・・・」ゼカ4・12)私達の霊的な生命のともしびの油も、神に属するものである。主イエスはゲッセマネ(アラム語で「オリーブの油搾り」)の園で、汗が血に変わるほどの苦悶で押しつぶされた。その、主イエスから溢れる油である。「私を輝かせる」ための燈油である。私達は、この夏の日照りの中で水を飲まなければ生きられない。等しく、霊的な生命も、乾ききっている世的な砂漠の中で、枯れてしまうのである。主の御前に出て、主イエスからの油の供給を受けよう。多量に求めても拒まれる事はない。主イエスの恵みの油だから。1)主イエスから油を受けないならば、私は輝く命を失う。2)そのためには、主イエスのもとに、絶えず訪れることとする。
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「流れの初めと途上」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/23 8:50
† 濁りがないこと。
 先日、ある牧師さんが鮎釣りの現場を動画で配信されていた。ご自身が友釣りをされるベテランだ。私も中学生時代から鮎の友釣りをしていた。当時は友釣りの解禁日は村を挙げてのお祭り行事のようで、川は明け方から釣り人で一杯になった。思い出すことは川は輝いていたことである。要するに透明度が高く清流であった。しかし近年山間部であるにも関わらず、川のかたちは同じでも、キラキラする輝きがない。友人によると家庭洗剤や農薬(燐)によって汚染されているという。川底が汚れ光らないのである。直ぐ近くを流れる木曽川だか、流れは変わらないけど川底は光らない、同じ現象で、今は誰一人友釣りをしている人がいない。人間があるがままを生きる事で、起こってくることは「汚辱」を生みだすことである。主イエスとの鮮烈な出会いも、しばらくすると忘れ去ってしまう。密室の祈りを失い、安易なデボーションで良しとする。これらが、濁りを発生させるのだろう。主イエスから目を離さず(ヘブル12・2)キラキラと輝く生命の水の中で、神の子どもで在り続けよう。

† 途上はメンテナンスが要る。
  新しい機械装置が導入されると、高品質の製品が効率良く産出される。まさに新品にまさるものはない。日本製の工作機械は世界でも評価が高い。品質が良く、壊れにくい事が挙げられる。もっと身近では、便利なアイデアに満ちた工具が色々と紹介されているのを見る。問題は機能を支える品質が確かか?と言うことだ。先日も購入したばかりだという機器が動かないという。それで電気系統を点検、変圧器からモーターに繋がる部分で接続の不十分がわかった。新しくても安易な設計がされているためである。このようにメンテナンスで解決できれば幸いである。子供の自転車では大、中、小と多々あり、ほとんど他の家庭からの中古車だ。しかし、メンテナンスを施せば、自転車は新品同様に走り、遜色はない。新品の時期は短い、あとは絶えずメンテナンスによって初めの機能を取り戻すことである。・・・・教会の交わり、信仰生活、証詞と伝道も放っておけば、錆がつきがたがくる。聖書的で霊的なメンテナンスを怠らなければ、主の交わりの教会は、健全さを持続して行けるのである。
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