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牧師の想い - 「強さ弱さを持つ」(7)

「強さ弱さを持つ」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/3/28 1:00
 † 強さに見られる影。
 人間とはどう言う者なのか?要するに、強くなろうとしている生き物ではあるまいか?旧約聖書には、サムソン(士師13-16章)という勇士が描かれている。彼は特別な怪力を神から与えられている。その秘密は、彼の髪の毛にあった。即ち、彼の頭髪が有る限り、その怪力は失われることはなかった。サムソンの神の毛は、神が共に居られるという実質だったのである。不用意にもサムソンは、情婦に秘密をもらし、眠っているあいだに神の毛を切られ、力のないただの男になった。新約聖書にはサウロという勇猛な男(使徒7章)が登場する。だれよりも熱烈なユダヤ教徒であった。何を物語っているかと言えば、サウロは「自分こそは熱心に神に仕える者」であったのである。しかし、この強さには影がある。自分(人間)が、神を担ぎ上げているのである。神に「担われている」はずなのに、神を背負い担ぐ、と言う、最も愚かな人間の弱さに陥いっていたのである。私こそが教会を支えているという思いと同じである。復活の主に出会うことを通して、サウロは「強さの影」を見せられた。サウロは解体し「パウロ」に変わった。神に担われる者に成ったのである。

 † 弱さこそ強さ。
 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」2コリ12・10)甘んじる。とは意味深長な言葉だと思う。使徒パウロは「キリストのために」と明確に語っている。クリスチャンなら、この御言葉を考えるはずである。使徒パウロの「弱いとき」に注目する。人間の一番弱い姿は「死者となる」時である。使徒パウロの真の強さは「死」に関係していると信じている。キリストの福音は、キリストのようになる。または、キリストのようになれる事だと信じる。使徒パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました。」ガラテヤ2・20)という実存的な生き方を語っている。ここに「死んでいるとき」が「弱いとき」なのである。と信じる。自分のために死ぬのであり、それはキリストのために死ぬことである。死んだ者の内に「キリストが生きておられる」のであり、聖霊様がキリストの内に働かれたように、私達の内にも働かれるのである。 
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