トップ  > 牧師の想い牧師の想い > 「目ざすものがある」(3)

牧師の想い

牧師の想い - 「目ざすものがある」(3)

「目ざすものがある」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/22 1:00
 † 不人気な事をする。
 主イエスは人々に、人気のある事をするために世に来られたのか?私の答は迷うことなくNOと言う。もちろん5つのパンと二匹の魚で五〇〇〇人の給食を賄われた奇跡では、人々の人気は頂点に達した。これほど便利な者を、自分たちの王にしたかったからである。しかし、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」ヨハネ6・53)と言われると、主イエスの真理に対しては、意味を感じず群集は去っていった。主イエスの使命が、世の人々の人気などと全く関係のない事だったからである。神の愛を現すには、世に影響されたり、人々の人気取りなどとは全くの無縁であったのである。それは、それほどに透明である事を意味している。人におもねる事は、真実を歪めることでもあるからだ。このことは主の弟子達も、主の十字架と復活の後に悟って、誠に主イエスのように生きて、教会を聖霊に導かれる、聖いキリストの身体に建て上げたのである。神を畏れると言う事は人ではなく、神に喜ばれるように生きることである。

† 死から救い出す。
 「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」 ヤコブ5・20)私達の救出する人々は、主イエスを知らない全ての人々である。なに不自由なくこの世に生きており、健康で元気な人々である。悩みもなく、患難もない人々だ。ただ一つ共通するのは「その人は罪人」であり、永遠の滅びに向かって生きている人々なのである。教会はそういう人々がいるところに神が建てられている。教会とは「罪人を迷いの道から連れ戻す人」 の群れだからである。そこを目ざしている教会が、滅び行く人々の真の光りなのだ。私達は今、自らの信仰生活をこの上なく、喜び楽しんでいる。与えられた大きな恵みの特権に安住している。もし、真の喜びがあるならば、世の人々に証詞をすべきである。神からの喜びがないならば、何も出来ないからである。教会にあっても、世の楽しみを愛しているなら、罪人を救い出すための力が湧き出ないだろう。目ざすものを失うと進歩を失うように、教会は一人一人の救霊心によって使命を果たすのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (171)

トラックバック

トラックバックpingアドレス https://www.fvc-kani.jp/modules/omoi/tb.php/736
牧師の想いカレンダー
« « 2021 1月 » »
27 28 29 30 31 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 1 2 3 4 5 6
Login

ユーザー名:


パスワード:




SSL
パスワード紛失 |


top